なぜ嵐が丘は「人から聞いた話」として語られるのか

嵐が丘(エミリー・ブロンテ)の深掘り

この物語は、激情の渦中の本人ではなく、外部の人間が、さらに別人から伝え聞いた話として語られる。この入り組んだ語りの構造は、技巧ではなく、激情を扱うための必然である。

発見1: 物語は「二重の額縁」越しに語られる

「嵐が丘」の語りは入れ子になっている。まず、よそ者の紳士ロックウッドが嵐が丘を訪れ、その異様さに興味を持つ。彼が、長年この家に仕えてきた家政婦ネリーから、過去の出来事を聞き出す。つまり読者は、激情の当事者(ヒースクリフやキャサリン)から直接ではなく、ネリーの語りを、さらにロックウッドの記録を通して、二重の額縁越しに知らされる。【解釈】この距離は重要だ。荒野の激情をそのまま生で見せられたら、読者は圧倒されて拒絶するかもしれない。常識的なよそ者と、現実的な家政婦という二つのフィルターを置くことで、読者は安全な距離からその狂気を覗き込める。語りの構造そのものが、扱いにくい激情を読者に届けるための緩衝装置になっている。

発見2: 「常識の側」の語り手が、激情を測る目盛りになる

語り手のロックウッドもネリーも、ごく常識的で穏当な人間だ。彼らはヒースクリフたちの激情を理解できず、しばしば困惑し、距離を取る。【解釈】この「分かっていない語り手」が、かえって効果を生む。常識の側に立つ二人が「理解できない」と戸惑うことで、読者はヒースクリフとキャサリンの愛が、いかに普通の物差しを超えているかを測れる。もし語り手が当事者なら、その激情は「内側からは当たり前」になってしまう。外部の常識人を通すことで、荒野の愛の異常さと強烈さが、常識との落差として際立つのだ。

発見3: 誰も全体を見ていない——だから神話のように残る

この物語には、すべてを見通す全知の語り手がいない。ネリーは見聞きした範囲しか知らず、ロックウッドはさらにその伝聞しか知らない。出来事の核心(二人の魂の結びつき)は、誰の口でも完全には説明されない。【解釈】この「誰も全体を把握していない」構造が、嵐が丘を単なる事件記録ではなく、神話のような不滅の物語にしている。荒野で何が本当に起きたのか、二人の愛が何だったのかは、伝え聞きの霧の向こうに、ついに完全には捉えきれないまま残る。理屈で割り切れないものを、割り切れないまま差し出すこと——この語りの不完全さこそが、読後に長く尾を引く、この作品の底知れなさを生んでいる。

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