なぜ語り手が「猫」でなければならなかったのか
「吾輩は猫である」——この小説の最大の発明は、語り手を人間ではなく猫にしたことだ。なぜ猫の目でなければ、明治の知識人社会をこれほど鋭く笑えなかったのか。視点の仕掛けを読み解く。
発見1: 猫は「人間社会の外」にいるから、利害なく笑える
語り手の猫『吾輩』は、人間社会の価値観の、完全に外側にいる。出世も、金も、名誉も、学問の権威も、恋愛も——人間が必死で求め、守ろうとするものが、猫にとっては何の意味も持たない。【解釈】ここに、猫を語り手にした最大の理由がある。もし語り手が人間なら、その人間自身も、社会のしがらみや見栄の中に組み込まれている。自分も同じ土俵にいる以上、人間社会を本当に外から笑うことはできない。だが猫は、その土俵の完全な外にいる。利害がない。だからこそ、人間が真剣に争い、見栄を張り、もったいぶって議論することの、滑稽さと無意味さを、何の遠慮もなく、しがらみもなく、まっすぐ見抜いて笑える。社会の外の視点だけが持つ、自由な批評眼だ。
発見2: 「人間より高い視点」が、人間を見下ろす構図を作る
この小説で面白いのは、猫が、人間を見上げるのではなく、見下ろしていることだ。『吾輩』は、自分を人間より賢く、人間より上等な存在のように振る舞い、人間たちの愚かさを、一段高い場所から論評する。【解釈】普通、猫は人間に飼われる、下の立場の存在だ。だが漱石は、その関係を逆転させる。猫を、人間を観察し評価する『批評家』の位置に置く。この逆転によって、読者は、いつも自分たちが当たり前だと思っている人間社会を、外から、上から、眺めることになる。当然と思っていた人間の振る舞いが、猫の高い視点から見ると、急に奇妙で滑稽なものに見えてくる。視点を一段ずらすだけで、見慣れた世界が、こんなにもおかしく見える——その発見が、この小説の根本の仕掛けだ。
発見3: 「人間ならざるもの」の目こそ、人間の本質を照らす
なぜ、人間ではなく『人間ならざるもの』の目が、人間の本質を最もよく照らすのか。【解釈】私たちは、自分が当たり前としている価値観の中にいると、それが当たり前すぎて、見えなくなる。見栄を張ることも、肩書きにこだわることも、もったいぶって議論することも、人間社会では『普通』だから、その滑稽さに気づけない。だが、その価値観をまったく共有しない存在——猫——の目を借りると、初めて、それらが『当たり前』ではなく、奇妙で滑稽なものとして見えてくる。異質な視点は、見慣れて見えなくなったものを、もう一度くっきりと見せてくれる。漱石は、猫という『他者の目』を発明することで、人間が自分では決して見られない、人間自身の姿を、鏡のように映し出した。これは、文学が世界を新しく見せるための、最も鮮やかな方法の一つなのである。
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