画: 歌川国芳「猫の浮世絵」吾輩は猫である
一言での本質
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」——名もなき一匹の猫が、飼い主である中学教師・苦沙弥(くしゃみ)先生の家に出入りする人間たちを、冷ややかに観察し、論評する。人間ならざる猫の目を通して、明治の知識人たちの滑稽さ、見栄、空理空論が、容赦なく、しかしどこか愛嬌をもって暴かれていく、日本近代文学屈指の諷刺小説である。
この作品の背景
「吾輩は猫である」は1905年(明治38年)から雑誌『ホトトギス』に連載された、夏目漱石の処女小説だ。語り手は、名前もない一匹の猫。彼は、中学の英語教師・珍野苦沙弥(ちんの くしゃみ)先生の家に住み着き、そこに集う人間たちを観察する。
苦沙弥先生の家には、美学者の迷亭(めいてい)、理学者の寒月(かんげつ)など、一癖ある知識人たちが出入りし、とりとめのない議論や、もったいぶった空論を交わす。猫の『吾輩』は、彼らのやりとりを、人間より一段高いところから見下ろすように、皮肉と批評を込めて語っていく。明確な筋(プロット)はほとんどなく、猫の観察と論評そのものが小説の中身だ。
物語の構造
- 名もなき猫『吾輩は猫である。名前はまだ無い』——名もなき猫が、捨てられた末に苦沙弥先生の家に住み着く。
- 苦沙弥先生胃弱で気難しく、見栄っぱりな中学教師・苦沙弥先生を、猫は冷ややかに観察する。
- 集う知識人たち美学者の迷亭、理学者の寒月など、一癖ある知識人が集い、空理空論を交わす。
- 猫の論評猫は、人間たちの滑稽さ、見栄、矛盾を、人間より高い視点から皮肉を込めて論評する。
- 猫の最期物語の最後、猫はビールに酔って水甕(みずがめ)に落ち、静かに死を受け入れる。
現代の働く人への示唆 解釈
なぜ語り手が『猫』でなければならないのか。【解釈】もし人間が語り手なら、その人間自身も、社会の価値観や見栄の中に組み込まれていて、人間社会を完全に外側から笑うことはできない。だが猫は、人間社会の外にいる。出世も金も名誉も、猫には関係ない。だからこそ猫は、人間が必死に守っている見栄や肩書きや議論が、いかに馬鹿げて見えるかを、利害なく、しがらみなく、見抜くことができる。『人間ならざるもの』の視点こそが、人間の滑稽さを最も鋭く照らし出す。
この小説には、ほとんど『筋』がない。【解釈】普通の小説には、事件が起き、物語が進み、結末へ向かう筋立てがある。だが本作は、猫が見聞きしたことを、とりとめなく語るだけだ。これは欠点ではなく、漱石の戦略だ。筋を追うのではなく、猫の『観察眼』と『論評』そのものを味わわせる。知識人たちのくだらない議論の一つひとつを、じっくりと、猫の皮肉な批評つきで眺めること——それ自体が、この小説の喜びになっている。物語を語るのではなく、世界を観察し、批評するという、新しい小説のかたちだ。
風刺の刃は、作者である漱石自身にも向いている。【解釈】猫が冷笑する苦沙弥先生は、胃弱の中学英語教師であり、これは英文学者だった漱石自身の戯画でもある。漱石は、明治の知識人を笑いながら、その知識人の一人である自分自身をも、猫の目を借りて笑っている。だからこの諷刺には、相手を一方的に断罪する冷たさではなく、人間の滑稽さへの、どこか温かい愛嬌が漂う。人間はみな、多かれ少なかれ、見栄っぱりで、矛盾していて、滑稽だ——そう知り尽くした上での、苦みと優しさの混じった笑いが、本作の魅力なのだ。
さらに深く知る
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原文を無料で読めます。吾輩は猫である(青空文庫)。