明治の知識人の何を風刺しているのか

吾輩は猫である(夏目漱石)の深掘り

苦沙弥先生とその仲間たちが交わす、空理空論ともったいぶった議論。漱石が猫の目を借りて笑った、明治の知識人たちの滑稽さとは何か。その風刺の中身を読み解く。

発見1: 「空理空論」をもてあそぶ知識人の滑稽さ

苦沙弥先生の家に集う知識人たち——美学者の迷亭、理学者の寒月——は、しばしば、何の役にも立たない、もったいぶった議論や、とりとめのない空論に、大真面目に時間を費やす。【解釈】漱石が笑うのは、知識や教養を、現実の生活や人間の幸福のためではなく、ただ自分を賢く見せ、互いに知識をひけらかすために使う姿だ。彼らの議論は、難解な言葉や西洋の知識で飾り立てられているが、中身を覗くと、しばしば空っぽで、現実から遊離している。明治という時代、西洋の学問が一気に流れ込み、知識人たちは新しい知識をまとった。だがその知識が、生活の地に足をつけず、見栄と自己満足のための装飾になっているとき、それはひどく滑稽だ。猫は、その空虚さを、容赦なく見抜いて笑う。

発見2: 「見栄」と「自意識」に縛られる人間たち

苦沙弥先生は、胃弱で気難しく、たいした学者でもないのに、妙に偉ぶり、見栄を張る。来客に対して虚勢を張り、内心の劣等感を隠そうとする。【解釈】漱石が鋭く突くのは、知識人たちの『見栄』と『自意識』だ。彼らは、他人にどう見られるかを過剰に気にし、自分を実際以上に見せようとし、つまらない自尊心に縛られている。猫は、その内面の見栄や虚栄を、すべてお見通しだ。表向きはもっともらしく振る舞う人間が、内心では、くだらない自尊心や劣等感に右往左往している——その内と外のギャップを、猫の目は容赦なく暴く。立派ぶった大人たちの、子どもじみた見栄っぱりな本性が、猫の論評によって、次々と剥がされていく。

発見3: 風刺の刃は「文明開化」そのものにも向いている

この小説の風刺は、個々の人物だけでなく、明治日本という時代そのものにも向いている。【解釈】明治は、急激な西洋化——文明開化——の時代だった。日本人は、西洋の学問、思想、生活様式を、猛烈な勢いで取り入れた。だが漱石は、その西洋化が、しばしば表面的な物真似に終わり、消化されないまま見栄の道具になっている滑稽さを、見抜いていた。苦沙弥先生たちは、西洋の知識をまとっているが、それが自分の血肉になっておらず、ただの飾りになっている。漱石自身、イギリスに留学し、東西の文明を深く知る知識人だったからこそ、上滑りな西洋かぶれの滑稽さを、誰よりも鋭く感じていた。猫の諷刺は、一人ひとりの人間を笑いながら、その背後にある、急いで西洋を真似ようとした近代日本全体の、背伸びと滑稽さをも、静かに照らし出しているのである。

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