本当の主人公は誰か——なぜ大聖堂が物語の中心なのか
日本では「ノートルダムのせむし男」として知られるが、原題は建物の名「パリのノートルダム」だ。このズレは誤訳ではなく、作品の核心を指している。ユゴーが本当に主人公に据えたものを明らかにする。
発見1: ユゴーはこの本を「建物を救うため」に書いた
1830年代のパリでは、中世のゴシック建築が時代遅れとして取り壊され、改変されつつあった。ユゴーはそれに強く反対し、ゴシック建築の価値を世に訴えるためにこの小説を書いた、という背景を持つ。【解釈】だから物語の中心に据えられたのは、悲恋の登場人物ではなく、大聖堂そのものだ。ユゴーは丸ごと一章を割いて、登場人物そっちのけで中世パリの建築を描写する。読者を物語で引き込みながら、本当に伝えたかったのは「この石の建造物がいかに偉大で、壊してはならないか」だった。実際この小説の成功は、ゴシック建築の再評価と保存運動を後押しした。物語が現実の建物を救ったのである。
発見2: カジモドは「肉体を得た大聖堂」である
カジモドは大聖堂の中だけで育ち、鐘の音で耳を失い、ガーゴイル(怪物の彫刻)に囲まれて生きてきた。彼の醜い姿は、大聖堂の外壁を飾る怪物像とそっくりだ。だがその内側には、純粋で深い愛がある。【解釈】ここに完璧な対応がある。大聖堂は、外は怪物のようなガーゴイルに覆われ、内は聖なる祈りの空間だ。カジモドも、外は怪物のように醜く、内は最も清らかな愛を抱く。彼は大聖堂が人間の形を取った存在であり、だからこそ建物と一体になって生きる。物語の主人公が建物だとすれば、カジモドはその建物の魂が肉体をまとった姿なのだ。
発見3: 「これがあれを滅ぼす」——建築という人類の書物が、印刷に殺される
作中、フロロが印刷された本を手に取り、大聖堂を指してつぶやく有名な一節がある——「これが、あれを滅ぼすだろう」。印刷術が、建築を滅ぼす、という意味だ。【解釈】ユゴーの洞察は深い。印刷術が生まれる前、人類は思想や物語を「建築」に刻んで残した。大聖堂は、文字の読めない人々にとっての巨大な書物だった。彫刻や構造のすべてが意味を語っていた。だが印刷術が広まると、人類の記録は紙の本へ移り、建築は「読まれる」ことをやめる。大聖堂が無理解の中で壊されていくのは、それが「もう誰も読まない、時代遅れの書物」になったからだ。ユゴーはこの小説で、滅ぼされゆく「石の書物」を、紙の本によって最後にもう一度読ませようとした。物語そのものが、建築を救うための一つの記念碑である。
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