なぜ「抑圧された悪」は人を乗っ取るのか

ジキル博士とハイド氏(ロバート・ルイス・スティーヴンソン)の深掘り

変身を繰り返すうち、ハイドはジキルを超えて優勢になり、ついに彼を乗っ取る。一度解き放った悪が制御を失っていく過程に、この物語の最も深い恐怖がある。

発見1: 最初は「制御できる」と思っていた

ジキルがハイドへの変身を始めたとき、彼は、それを完全に制御できていた。自分の意志で薬を飲んでハイドになり、また薬を飲んでジキルに戻る。悪は、彼が望むときだけ解き放たれ、望めば封じ込められる、便利な道具のはずだった。【解釈】ここに、悪に手を出す者が陥る、典型的な錯覚がある。人は、『自分は悪を制御できる』『いつでもやめられる』と信じて、悪に手を染める。ジキルも、ハイドという悪を、安全に管理できると過信していた。少しだけ、誰にも知られずに、抑え込んだ欲望を満たすだけ——そのつもりだった。だが、悪は、道具として安全に使えるものではない。制御できると思っているうちは、まだ悪が小さいだけだ。やがて悪は、制御する側とされる側を、逆転させていく。

発見2: 悪を「繰り返す」ことが悪を育てる

ジキルが、ハイドとして快楽と悪徳を味わうたびに、ハイドは、少しずつ力を増していく。やがて、ジキルが望んでいないのに、眠っている間などに、勝手にハイドが現れるようになる。最後には、ジキルに戻るために、より多くの薬が必要になる。【解釈】これは、悪が習慣となり、本人を侵食していく過程だ。一度の悪は、二度目を呼ぶ。悪を繰り返すたびに、それは抵抗なく、自然なものになり、本人の一部として根を張っていく。ハイドが力を増すのは、ジキルが、ハイドとしての悪を、繰り返し選び、味わってきたからだ。悪は、味わえば味わうほど、本人の中で大きくなる。そして、本来の善良な自分のほうが、しだいに弱く、現れにくくなっていく。スティーヴンソンは、悪徳が、一度きりで終わらず、習慣となって人を蝕み、ついには人格そのものを乗っ取っていく、その恐ろしい力学を、変身のメカニズムとして描き出した。

発見3: 解き放った悪は「もう封じられない」

物語の終わり、ジキルは、もはやハイドを制御できなくなる。薬も効かなくなり、自分の意志に反して、いつハイドに変わってしまうかわからない。本来の自分を取り戻す術を失ったジキルに残されたのは、ハイドに完全に乗っ取られる前に、自ら命を絶つことだけだった。【解釈】この破滅的な結末は、深い教訓を含んでいる。一度解き放った悪は、もう元のように封じ込めることはできない。ジキルは、悪を切り離して安全に味わえると思っていたが、最後には、その悪に、自分自身を明け渡すことになった。抑圧された欲望を、安易に解放することの代償は、あまりに大きい。それは、一時の快楽と引き換えに、自分という人間そのものを失うことだった。ジキルの悲劇は、悪と向き合い、それを抱えながら律して生きるという、人間の困難な務めから、薬という安易な手段で逃れようとしたことにある。悪は、消すことも、切り離すこともできない。ただ、それと向き合い、日々、善を選び続けることでしか、人は人でいられない。この中編は、わずかな分量の中に、人間が自らの内なる悪とどう向き合うべきかという、永遠の問いを、忘れがたい恐怖とともに刻みつけているのである。

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原文を無料で読めます。The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde(Project Gutenberg掲載の英語原文)