イリアスの時代背景

イリアス(ホメロス)の深掘り

三千年近く前、まだ文字が十分に広まっていない時代に、この巨大な物語は生まれた。それが「語り」によって伝えられたものだという事実を知ると、作品の独特な形が理解できる。

文字ではなく「語り」で伝えられた叙事詩

「イリアス」は、紙に書かれた小説としてではなく、吟遊詩人が人々の前で暗唱し、歌い継いだ口承の詩として成立した。【解釈】だからこの作品には、口で語り、耳で聞くための特徴が刻まれている。同じ表現が繰り返される決まり文句(「俊足のアキレウス」「ばら色の指を持つ曙」)が頻出するのは、語り手が記憶し、聴衆が聞き取りやすくするための技術だ。物語が壮大でありながら、ある一点(アキレウスの怒り)に絞られているのも、長大な物語を語りで成立させるための構造である。私たちが今読む「イリアス」は、何世代もの語り手が磨き上げた、声の文化の結晶なのだ。

「名誉」がすべてを決める社会

物語の発端は、アキレウスが戦利品の女を奪われ、名誉を傷つけられたことだ。現代の感覚では些細に見えるこの侮辱が、最強の英雄を戦線離脱させ、味方を危機に陥れる。【解釈】これは、当時の戦士社会において、「名誉」が命より重い価値だったことを示す。戦士の価値は、戦場での武勇と、それによって得る名誉によって測られた。名誉を傷つけられることは、存在そのものを否定されることに等しい。だからアキレウスの怒りは、わがままではなく、彼の生きる世界の根本原理から来ている。この名誉の文化を理解すると、彼の怒りも、英雄たちが死を恐れず戦う姿も、当時の人間にとっての切実な現実として見えてくる。

発見: 「必ず死ぬ」ことを知る人間の、最初の文学的肖像

「イリアス」の英雄たちは、不死の神々と違い、必ず死ぬ運命にある。そしてアキレウス自身、戦い続ければ若くして死ぬと予言されている。彼はそれを知りながら、栄光のために戦うことを選ぶ。【解釈】ここに、この古い作品の最も深い主題がある。限りある命を持つ者は、その短さゆえに、何に命を使うかを選ばねばならない。長く生きて忘れられるか、短く生きて永遠に語り継がれるか。アキレウスは後者を選ぶ。死すべき存在であることの自覚——それは恐ろしいが、同時に、生に意味と重みを与える。不死の神々には、選択の重さも、生の輝きもない。だからこそ、必ず死ぬ人間たちの物語のほうが、神々の物語よりも切実で美しい。三千年前のこの叙事詩は、「人はいずれ死ぬ。だからこそ、どう生きるか」という、文学が問い続ける最も根本的なテーマを、最初に立ち上げた作品なのである。

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