ミシシッピ川は何を象徴するのか
ハックとジムの旅の舞台である川と、彼らが時おり上がる岸。この「川」と「岸」の対比が、物語の道徳的な地図になっている。なぜ川の上でこそ、二人は自由なのか。
発見1: いかだの上の川は「自由と対等」の空間である
ハックとジムは、いかだに乗ってミシシッピ川を下る。この川の上、二人きりの空間こそ、物語で最も自由で温かい場所だ。【解釈】川の上では、社会の身分も人種の壁も薄れる。白人の少年ハックと黒人奴隷ジムは、いかだの上では、ただ二人の人間として、対等に語り合い、助け合う。ジムはハックを息子のように気遣い、ハックはジムを友として頼る。陸の社会では決して許されない、白人と黒人の対等な友情が、川の上でだけ成立する。流れる川は、固定された社会の秩序の外にある、自由な領域だ。だからこの物語で最も人間らしい瞬間は、すべて川の上で起きる。
発見2: 岸に上がるたび、ハックは「文明社会の醜さ」を見る
対照的なのが「岸」だ。ハックとジムが川から岸に上がるたびに、ハックは陸の『文明社会』の醜さを目撃する。詐欺師の親子の悪事、何世代も続く一族同士の血の殺し合い、群衆の暴力、偽善的な人々。【解釈】社会が『正しく文明的だ』としている岸のほうが、実は嘘と残酷さと愚かさに満ちている。トウェインは、川と岸を交互に描くことで、痛烈な対比を作る——自由な川の上には素朴な人間らしさがあり、『文明的』な岸の上には腐敗がある。社会の道徳や秩序が、必ずしも人間を善くしないどころか、しばしば最悪の残酷さを正当化する。ハックが社会の道徳に逆らってジムを助けるのが正しく見えるのは、その社会の『正しさ』が、岸の醜さとして、繰り返し読者に示されているからだ。
発見3: 流れる川は「束縛されない生き方」そのものである
ハックは、物語の最初から最後まで、『文明化(シヴィライズ)』されることを嫌う。窮屈な礼儀作法、決まりきった生活、社会の型にはめられることを、彼は本能的に拒む。流れる川といかだの旅は、その『型にはまらない生き方』の象徴だ。【解釈】川は一か所に留まらず、絶えず流れ、どこへでも行ける。それは、社会の秩序や身分に縛られず、自分の心に従って生きる自由の姿だ。物語の最後、ハックは、また文明化されそうになると、「みんなより先に、西部の未開地へ逃げ出すつもりだ」と言って終わる。彼は、社会に取り込まれることを最後まで拒み、再び自由を求めて旅立とうとする。川を下る旅は、目的地への移動ではなく、束縛を拒み、自分の良心に従って生きるという、生き方そのものの寓話だった。だからこの作品は、単なる少年の冒険譚を超えて、社会の枠に収まりきらない、自由な魂の物語として、アメリカ文学の原点に立っている。
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