「それなら地獄へ行こう」——この決断の意味は何か

ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トウェイン)の深掘り

この一言は、アメリカ文学で最も有名な道徳的瞬間とされる。少年が「地獄へ行こう」と決意するこの場面が、なぜそれほど重いのか。社会の道徳と心の道徳の衝突として読み解く。

発見1: ハックは「正しいこと」をしていると思っていない

この場面で重要なのは、ハックが、奴隷ジムを助けることを「善いこと」だと思っていないことだ。彼は、当時の社会の道徳——奴隷は財産であり、逃亡を助けるのは盗みであり、地獄に落ちる罪だ——を、心から信じている。だから彼は、ジムを助けようとする自分を、罪人だと思っている。【解釈】彼は手紙を書く。ジムの居場所を主人に知らせれば、『正しいこと』をしたことになり、罪から逃れられる。彼は一度、それで安心する。だが、ジムとの川の日々、ジムの優しさを思い出すと、手紙を破り捨て、こう言う——「よし、それなら、おれは地獄へ行こう」。自分は罪を犯し、地獄に落ちると本気で信じながら、それでも友を助けることを選ぶ。これは、立派な信念に基づく英雄的行為ではない。むしろ、自分は間違っていると思いながら、それでもそうせずにいられない、という決断だ。

発見2: 「教えられた道徳」と「心の道徳」が衝突している

この場面で衝突しているのは、二種類の道徳だ。一つは、社会から教え込まれた道徳——ハックがそれを「良心」と呼ぶもの。奴隷を助けるのは罪だ、と告げる声。もう一つは、ジムと過ごす中で育った、生身の人間への情——ジムを見捨てられない、という心の声。【解釈】恐ろしいのは、ハックが「良心」と呼んでいるものが、実は社会の歪んだ道徳の刷り込みにすぎないことだ。彼の『良心』は、奴隷制を肯定するよう彼を導く。一方、彼が『罪』だと思って従う心の声のほうが、実は本当の人間性に根ざしている。マーク・トウェインの痛烈な皮肉はここにある——人が「良心」と呼んで従っているものが、社会の偏見の産物であることがある。本物の道徳は、教え込まれた『正しさ』に逆らう、心の奥の声のほうにある場合がある。

発見3: 真の良心は、自分を「善人」と思わないところに宿る

もしハックが、「奴隷制は間違っている、だから私は正義のためにジムを助ける」と考えていたら、それは立派だが、ある意味たやすい。彼は自分を正義の側に置ける。だがハックは、そうではない。彼は、自分は罪を犯している、地獄に落ちる悪いことをしていると、最後まで信じている。【解釈】ここに、トウェインの描いた良心の最も深い形がある。本物の良心とは、「自分は正しいことをしている」という満足の中にではなく、「自分は間違っているかもしれない、でも目の前のこの人を見捨てられない」という、信念ではなく情の中に宿る。ハックは、理屈や正義感ではなく、ジムという一人の人間への愛着から、社会全体の道徳に逆らう。自分を善人だと思わずに、ただ友を見捨てられないという理由だけで、地獄を覚悟する。この、自己を正義化しない良心こそ、最も本物で、最も尊い。だからこの少年の素朴な一言が、百四十年経っても、読む者の胸を打つのである。

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