この物語が問う「悪」とは何か

羅生門(芥川龍之介)の深掘り

下人も老婆も、自分を「悪人」だとは思っていない。「生きるためには仕方がない」という理屈の前で、悪はどこから始まるのか。エゴイズムと正当化という観点から、芥川の人間観を読み解く。

発見1: 誰も自分を「悪人」だとは思っていない

この物語に出てくる人間は、誰一人、自分を純粋な悪人だとは思っていない。老婆は、死体の髪を抜きながら、『生きるために仕方なくやっている、悪いことではない』と信じている。死んだ女も、生前、蛇を干し魚と偽って売ったが、『生きるために仕方なく』そうしていた。下人も、最後に着物を奪うとき、『そうしなければ飢え死にする』という理由で、自分を納得させている。【解釈】芥川が描く悪は、邪悪な意志から生まれるのではない。みな『生きるためには仕方がない』という、切実で、ある意味もっともらしい理由から生まれている。悪は、悪人の顔をしてやってこない。生きのびようとする、ごく普通の人間の、自己保存の欲求の延長線上に、いつのまにか姿を現す。

発見2: 悪は「正当化の論理」とともに生まれる

この物語で、悪が成立するためには、必ず一つの『論理』が必要とされている。老婆は、自分の行いを正当化するために、『この女も悪事をしていた』という理屈を持ち出す。下人は、自分の盗みを正当化するために、その老婆の理屈を借りる。【解釈】つまり、人は、ただ悪を犯すのではなく、必ず『だから許される』という理由をセットで用意する。むき出しの悪を、人はなかなか実行できない。だが、それを正当化する論理さえ手に入れば、良心のためらいは消え、悪は実行可能になる。恐ろしいのは、その正当化の論理が、いくらでも作れることだ。『生きるため』『相手も悪いことをした』『仕方がない』——こうした言葉は、どんな悪にも貼りつけられる。悪とは、行為そのものより、それを許す理屈を自分に許した、その瞬間に始まるのかもしれない。

発見3: 善と悪を分ける境界は、思うより脆い

下人は、物語のあいだに、悪を憎む正義の人にも、悪を犯す盗人にも、なりうることを見せた。同じ一人の人間が、わずかな時間で、両方になる。【解釈】ここに芥川の冷徹な人間観がある——善人と悪人は、別の種類の人間ではない。一人の人間の中に、善も悪も同居していて、どちらが表に出るかは、状況と、たった一つのきっかけで決まる。私たちは普段、自分を善良な側の人間だと思っている。だが、極限の飢えと、悪を正当化する論理を一つ与えられたら、自分は下人にならずにいられるだろうか。芥川は、答えを出さない。ただ、闇に消えていく下人の後ろ姿を示して、物語を終える。その『行方は、誰も知らない』という最後の一行は、悪へ踏み出した下人がどこへ行ったのかを問うと同時に、同じ状況に置かれたとき、私たち自身がどちらへ向かうのかを、静かに問い返しているのである。

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