画: 月岡芳年「羅生門の鬼」(羅城門の鬼を描いた浮世絵)羅生門
一言での本質
天災が続き、都が荒れ果てた平安末期。職を失った一人の下人(げにん)が、羅生門の下で『盗人になるか、飢え死にするか』と迷っている。門の楼上で、彼は死人の髪を抜く老婆と出会う。老婆の語る身勝手な理屈を聞いた瞬間、下人の迷いは消え、彼は老婆の着物を剥ぎ取り、闇へ消える——人間が『悪』へと踏み出す、その一瞬の心の動きを、極限まで凝縮して描いた短編である。
この作品の背景
「羅生門」は1915年(大正4年)に発表された、芥川龍之介の初期の代表作だ。題材は、平安時代の説話集『今昔物語集』からとられている。舞台は、天災や飢饉が続き、都がすっかり荒廃した平安末期。朱雀大路の南端に立つ羅生門(羅城門)は、もはや修理する者もなく、荒れ果て、引き取り手のない死体が打ち捨てられる場所になっていた。
物語の主人公は、主人に暇を出され、行き場を失った一人の下人だ。彼は、雨の降る羅生門の下で、途方に暮れている。このまま飢え死にするか、それとも盗人になって生きのびるか——彼にはその勇気が出ない。そんな彼が、門の楼上に上がったとき、薄明かりの中で、一人の老婆が、若い女の死体から髪の毛を一本ずつ抜いているのを目撃する。
物語の構造
- 荒廃する都天災と飢饉が続き、都は荒れ果てる。羅生門は死体の捨て場と化していた。
- 迷う下人職を失った下人は、羅生門の下で『盗人になるか、飢え死にするか』と迷っている。
- 老婆の発見楼上に上がった下人は、女の死体から髪を抜く老婆を見つけ、激しい憎悪と正義感を覚える。
- 老婆の論理老婆は『生きるためには仕方がない、この女も生前は悪事をしていた』と身勝手な理屈を語る。
- 下人の転落その理屈を聞いた瞬間、下人の迷いは消える。彼は老婆の着物を剥ぎ取り、闇の中へ消えていく。
現代の働く人への示唆 解釈
下人の心は、わずかな時間で何度も揺れ動く。【解釈】最初、彼は『盗人になるしかない』と思いながらも、その悪に踏み切る勇気がなかった。次に、死体の髪を抜く老婆を見て、激しい憎悪と正義感に駆られる——悪を許せないという、善の側の感情だ。ところが、老婆の身勝手な言い分を聞いた途端、その正義感は消え、逆に『それなら自分も』と、悪へ踏み出す勇気が湧いてくる。芥川は、人間の心が、善と悪のあいだを、これほど短時間で行き来しうることを、冷徹に見つめている。
下人を悪へと突き動かしたのは、老婆の『論理』だった。【解釈】老婆は言う——この女も、生前は蛇を干し魚と偽って売る悪事をしていた。だから飢えをしのぐためにこの女の髪を抜くのも、許されるはずだ、と。これは、自分の悪を、他人の悪を持ち出して正当化する理屈だ。一つの悪が、別の悪を呼ぶ『口実』になる。下人は、この理屈を逆手にとる——お前がそう言うなら、俺がお前の着物を剥ぐのも、生きるためだから許されるだろう、と。悪を正当化する論理は、いくらでも連鎖していく。
この物語が描くのは、特別な悪人ではなく、『普通の人間』が悪に転ぶ瞬間だ。【解釈】下人は、もともと悪人だったわけではない。むしろ、悪に踏み切れない、気の弱い、ごく普通の人間だ。だが、極限状況と、たった一つのきっかけ(老婆の論理)があれば、人は容易に一線を越える。芥川が突きつけるのは、善人と悪人のあいだに、はっきりした境界はない、という不安な真実だ。状況次第で、誰もが下人になりうる。だから、闇に消える下人の後ろ姿は、他人事ではなく、私たち自身の心の弱さの姿として、読者に迫ってくる。
さらに深く知る
原文を読むには
原文を無料で読めます。羅生門(青空文庫)。