豊太郎はなぜエリスを捨てたのか

舞姫(森鴎外)の深掘り

愛し合い、子まで宿したエリスを、豊太郎は最後に捨てて帰国する。彼は冷酷な男なのか、それとも弱い男なのか。その選択が「決断」ですらなかったことに、この物語の核心がある。

発見1: 豊太郎は「決断した」のではなく「流された」

豊太郎がエリスを捨てる過程を、よく見てみると、彼は、どこでも、はっきりと『エリスを捨てる』と自分で決めていない。友の相沢が、彼の将来を案じて、ロシア行きの仕事や帰国の道を用意する。豊太郎は、その流れに、ずるずると乗っていく。そして、心労のあまり病に倒れ、意識を失っているあいだに、相沢がエリスにすべてを告げ、事は決してしまう。【解釈】ここが重要だ。彼は、強い意志で愛を捨てたのではない。むしろ、自分で決めることから逃げ、周囲の力に身を委ねた結果、エリスを裏切ることになった。これは、能動的な裏切りというより、決断できない弱さがもたらした、受動的な裏切りだ。自分の人生の最も重大な岐路を、自分で選べなかった——それが豊太郎という人間の、痛ましい本質である。

発見2: 彼を縛っていたのは「出世」と「母・国家への負い目」

豊太郎が、エリスとの愛を貫けなかった背景には、彼が背負っていた重いものがある。彼は、幼い頃から優秀で、母の期待と、国家の費用を一身に受けて、留学していた。立身出世して国に報い、母を喜ばせること——それが、彼に課せられた、当然の責務だった。【解釈】エリスとの愛を選ぶことは、この責務のすべてを裏切ることを意味する。出世を捨て、官費留学生の地位を失い、母や国家の期待を踏みにじり、異国で一人の踊り子と生きる——その道を選ぶには、あまりに大きな決意が要る。豊太郎は、自分の心がエリスを求めていることを知りながら、これまで自分を作り上げてきた、出世への道と、母・国家への負い目から、どうしても自由になれなかった。彼を縛っていたのは、鎖ではなく、自分自身に染みついた、生き方そのものだった。

発見3: 「冷酷さ」ではなく「弱さ」の悲劇である

豊太郎は、悪人ではない。彼は、エリスを心から愛していたし、彼女を捨てたことを、生涯、深く悔やみ続ける。物語全体が、彼の消えない悔恨の告白として語られている。【解釈】だからこの物語の悲劇は、冷酷な男が女を弄んで捨てた、という単純な話ではない。むしろ、心優しく、しかし意志の弱い一人の男が、社会の論理と自分の弱さに負けて、最も愛する人を不幸にしてしまった、という悲劇だ。豊太郎は、最後にこう記す——相沢のような良い友を持ちながら、自分の心の奥には、彼を恨む気持ちが、今も一点、残っている、と。自分を出世させてくれた友に感謝しながら、その友がエリスとの仲を裂いたことを、恨まずにいられない。この、割り切れない感情こそ、弱さゆえに大切なものを失った人間の、生々しい真実だ。強くなれなかったこと——それが豊太郎の、そして多くの人間の、最も身につまされる罪なのである。

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