写真: ベルリン・ブランデンブルク門(1871年)舞姫
一言での本質
国家のエリートとしてドイツに留学した青年・太田豊太郎は、ベルリンで、貧しくも純真な踊り子エリスと出会い、愛し合う。だが、出世の道と、エリスとの愛が、両立しえなくなったとき、豊太郎は——友の手引きと自らの弱さによって——身重のエリスを捨て、日本へ帰る。エリスは正気を失う。立身出世を是とする社会と、目覚めかけた個人の自我とのあいだで引き裂かれる、明治の知識人の苦悩を描いた、近代日本文学の記念碑的作品である。
この作品の背景
「舞姫」は1890年(明治23年)に発表された、森鴎外の代表作だ。鴎外自身、軍医としてドイツに留学した経験を持ち、その体験が色濃く反映されている。物語は、日本への帰りの船の中で、主人公・太田豊太郎が、過去の出来事を悔恨とともに回想する形で語られる。
豊太郎は、幼い頃から優秀で、母や周囲の期待を一身に背負い、官費留学生としてベルリンへ送られた、国家のエリートだ。だが、自由なヨーロッパの空気の中で、彼は、これまで気づかなかった『本当の自分』に目覚めていく。そんなとき、彼は、教会の前で泣いている貧しい踊り子エリスと出会い、二人は惹かれあう。だがこの恋は、彼の留学生としての立場を危うくし、やがて、出世か、愛か、という究極の選択を、彼に突きつけることになる。
物語の構造
- エリート留学生豊太郎は、母や国家の期待を背負い、官費留学生としてベルリンへ送られたエリートだった。
- 自我の目覚め自由なヨーロッパで、豊太郎は、周囲の期待に従うだけだった『本当の自分』に目覚め始める。
- エリスとの愛貧しい踊り子エリスと出会い、愛し合う。だがこの恋は、彼の留学生としての立場を脅かす。
- 出世か愛か免職され困窮する豊太郎に、友・相沢は、出世の好機と引き換えにエリスと別れるよう勧める。
- 裏切りと悲劇豊太郎は身重のエリスを捨て帰国の道を選ぶ。真実を知ったエリスは、正気を失う。
現代の働く人への示唆 解釈
豊太郎の悲劇は、彼の中で『二つの自分』が引き裂かれていることから生まれる。【解釈】一つは、母や国家の期待に従い、立身出世こそが正しい生き方だと信じて疑わなかった、これまでの自分。もう一つは、ベルリンの自由な空気の中で芽生えた、自分自身の心と感情に正直に生きたいという、新しい自分。エリスへの愛は、この新しい自分の表れだ。だが豊太郎は、その新しい自我を貫く強さを持たなかった。古い自分と新しい自分のあいだで揺れ続け、最後には、流されるように、古い側へと戻ってしまう。
豊太郎は、自分の意志で決断したのではなく、『流された』。【解釈】エリスを捨てるという最大の選択を、彼は、自ら明確に決めたわけではない。友の相沢が話を進め、出世の道が用意され、病に倒れて意識を失っているあいだに、すべてが決まっていく。彼は、強い意志で愛を捨てたのでも、強い意志で愛を貫いたのでもない。ただ、自分の弱さゆえに、周囲の力と状況に流されるまま、結果としてエリスを裏切った。この『主体性のなさ』こそ、豊太郎という、近代の入口に立つ知識人の、痛切な弱さなのだ。
この物語が描くのは、個人の自我と、社会の論理の、和解しがたい衝突だ。【解釈】明治という時代、国家は、優秀な個人を、富国強兵の道具として育て、使おうとした。立身出世は、個人の願いであると同時に、国家の要請でもあった。一方、ヨーロッパで豊太郎が目覚めた『自分の心に正直に生きたい』という近代的な自我は、その社会の論理と、真っ向からぶつかる。豊太郎の悲劇は、彼個人の弱さの物語であると同時に、近代化のただ中で、個人と国家、自我と社会のあいだで引き裂かれた、明治の知識人全体の苦悩を、象徴している。
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原文を無料で読めます。舞姫(青空文庫)。