画: 地獄草紙(12世紀)蜘蛛の糸
一言での本質
極楽の蓮池のほとりを歩むお釈迦様は、地獄で苦しむ大泥棒カンダタが、生前ただ一度、小さな蜘蛛を助けたことを思い出す。その善行に報いようと、お釈迦様は一本の蜘蛛の糸を、地獄へと垂らす。糸を見つけたカンダタは、極楽へ昇ろうと糸をのぼり始める。だが、後から大勢の罪人が糸をのぼってくるのを見て、彼は『下りろ、これは俺の糸だ』と叫ぶ。その瞬間、糸はぷつりと切れ、カンダタは再び地獄へ落ちていく——たった一度の利己心が救いを断ち切る、人間のエゴイズムを描いた珠玉の短編である。
この作品の背景
「蜘蛛の糸」は1918年(大正7年)に発表された、芥川龍之介の短編だ。子ども向けの雑誌『赤い鳥』に載せられた、彼の最初の児童文学作品でもある。短く、簡潔で、わかりやすい物語でありながら、その中に、人間の本質をめぐる、深い問いを秘めている。
物語は、極楽から始まる。ある朝、お釈迦様が、極楽の蓮池のふちを散歩している。池の底は、地獄につながっている。お釈迦様は、池の底の地獄で、罪人たちがうごめいているのを、ふと覗き込む。その中に、カンダタという大泥棒がいた。カンダタは、生前、人を殺し、火をつけ、悪事の限りを尽くした男だ。だが、たった一つだけ、善いことをしていた。あるとき、道で小さな蜘蛛を踏み殺そうとして、『いや、この蜘蛛にも命がある』と思い直し、助けてやったのだ。お釈迦様は、そのたった一度の善行を思い出し、カンダタを地獄から救い出そうと、一本の蜘蛛の糸を、すうっと地獄へ垂らす。
物語の構造
- 極楽と地獄お釈迦様が極楽の蓮池を歩み、その池の底にある地獄を覗き込む。
- たった一度の善行地獄の大泥棒カンダタが、生前ただ一度、小さな蜘蛛を助けたことをお釈迦様は思い出す。
- 垂らされた糸その善行に報い、お釈迦様は一本の蜘蛛の糸を、極楽から地獄へと垂らす。
- 利己の叫び糸をのぼるカンダタは、後続の罪人を見て『下りろ、これは俺の糸だ』と叫ぶ。
- 糸が切れるその瞬間、糸はカンダタの真上でぷつりと切れ、彼は再び地獄の底へ落ちていく。
現代の働く人への示唆 解釈
カンダタを地獄に戻したのは、糸の細さではなく、彼自身の『利己心』だった。【解釈】蜘蛛の糸は、細いけれども、お釈迦様が垂らした、救いの糸だ。それが切れたのは、物理的に重さに耐えられなかったからではない。カンダタが『これは俺の糸だ、下りろ』と、他の罪人を蹴落とそうとした、その利己的な心が芽生えた瞬間に、糸は切れた。救いを断ち切ったのは、外の力ではなく、カンダタ自身の心の中から出てきた、自分だけ助かろうとするエゴイズムなのだ。
もしカンダタが『みんなでのぼろう』と思っていたら、結末は違ったかもしれない。【解釈】この物語の残酷さと教訓は、ここにある。カンダタが、後から来る罪人たちを受け入れ、『みんなで一緒に極楽へ行こう』と思っていたら——あるいは、せめて彼らを蹴落とそうとしなければ——糸は切れず、皆が救われたかもしれない。彼を滅ぼしたのは、罪の重さそのものよりも、救われる間際に出た、たった一つの利己心だった。自分だけ助かろうとした、その心が、自分の救いそのものを断ち切ってしまう。利己心は、結局、自分自身をも滅ぼす。
お釈迦様の『無関心』もまた、この物語の深い余韻を作っている。【解釈】カンダタが再び地獄へ落ちるのを見届けたお釈迦様は、悲しそうな顔をするが、やがて、また極楽の散歩を続けていく。お釈迦様は、カンダタを救おうとしたが、カンダタ自身の心が救いを拒んだ以上、それ以上は手を出さない。人を救えるかどうかは、最後には、その人自身の心にかかっている。お釈迦様の静かな立ち去り方は、救いというものの厳しさ——他者がどれほど手を差し伸べても、本人の心が利己に傾けば、救いは成り立たない——を、静かに告げている。
さらに深く知る
原文を読むには
原文を無料で読めます。蜘蛛の糸(青空文庫)。