檸檬は何を象徴しているのか

檸檬(梶井基次郎)の深掘り

丸善の棚に置かれた一個の檸檬は、日本文学で最も有名な「物」のひとつである。生命力や反逆という定番の読みは正しい。だがこの檸檬には、見落とされがちな三つの顔がある。すべて作中の具体的な記述から読み取れる。ちなみに本文約5,000字のうち「檸檬」の語はわずか9回、最初に現れるのは物語が半ばに差しかかる果物屋の場面である。タイトルの主役をぎりぎりまで出さず、最後に一個だけ置く——丸善の棚の上でやったことを、梶井は文章の設計そのものでもやっている。

発見1: 檸檬は手のひらに乗る「逃げたい異国」である

見落とされやすいが、「私」はこの檸檬の産地をはっきり意識している。鼻に持っていって嗅ぐたびに「それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る」。檸檬は国産の果物ではなく、舶来の輸入品なのだ。ここで物語の前半を思い出したい。「私」は京都から逃げ出し、仙台とか長崎とか、誰一人知らない遠い市へ行ってしまいたいと願っていた。だが金がなく、結核を病む身では旅もできない。その「どこか遠くへ行きたい」という叶わぬ願いが、カリフォルニア産の檸檬一個に凝縮する。【解釈】手のひらに乗り、二銭か三銭で買える異国——檸檬は、彼が行けないすべての場所の代理物として機能している。

発見2: 檸檬は破産者の手の中の「偽札」である

「私にはまるで金がなかった」と本文は明言する。丸善で昔は小一時間眺めて鉛筆を一本買うのが精一杯だった彼が、いま手にできるのは果物屋の檸檬一個だけだ。ところがその檸檬を握って彼はこう考える——この重さは「すべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さ」だ、と。【解釈】ここで起きているのは経済的な逆転である。金で買えるあらゆる善きもの・美しきものの価値が、二銭三銭の檸檬一個の重さに両替される。檸檬は、無一文の彼が世界中の価値を所有した気分にさせる偽の通貨だ。だからこそ次の場面で、舶来の高級品が並ぶ丸善——本物の貨幣経済の神殿——に、彼はその偽札を一個だけ置いて立ち去る。爆破の空想は、自分を締め出した経済への、無害だが痛烈な意趣返しとして読める。

発見3: 「売柑者之言」という埋め込まれた皮肉

檸檬を嗅ぐ場面で「私」は、漢文で習った「売柑者之言」の「鼻を撲つ」という言葉を思い出す。さらりと流されがちなこの一行は、実は重い伏線である。「売柑者之言」は中国・明代の劉基による寓話で、外見は黄金や玉のように美しいのに中身は腐った綿屑だった蜜柑——「金玉其の外、敗絮其の中」——を売る商人の話だ。見かけの立派さと中身の空虚を皮肉る古典である。【解釈】梶井は、檸檬の美しさが極まるまさにその瞬間に、この「美しい外見・腐った中身」の古典をそっと忍ばせた。すると三つのものが同じ皮肉に重なる。鮮やかな檸檬、その内側で結核に蝕まれていく「私」の身体、そして堂々たる外観の下で「私」には借金取りの亡霊にしか見えなくなった丸善。美しい表層と空ろな内実というテーマが、この一行の引用を要にして作品全体に張り巡らされている。

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本作はパブリックドメイン(著作権保護期間満了)であり、全文を無料で読めます。青空文庫「檸檬」(梶井基次郎)(図書カード)。