ニーチェは道徳の何を疑ったのか
「善悪の彼岸」というタイトルは、悪事の勧めではない。ニーチェが疑ったのは、私たちが「善」「悪」と呼ぶものが、本当に永遠の真理なのか、という点だ。その疑いの射程を解く。
発見1: 「善」と「悪」は永遠の真理ではなく、歴史を持つ発明品である
私たちは普通、「善いこと」「悪いこと」が、天から定められた永遠の基準のように思っている。ニーチェは、これを疑う。彼によれば、何が善で何が悪かは、時代や社会や立場によって作られ、変化してきた、人間の発明品だ。【解釈】たとえば、かつて誇りや復讐は美徳とされたが、後に罪とされた。謙虚や従順は、ある時代には弱さとされ、別の時代には美徳とされた。善悪の基準は、絶対不変ではなく、歴史の中で作られ、組み替えられてきた。ならば、私たちが今、当然と思っている道徳も、絶対のものではない。それは、検討し、由来を調べ、疑うことのできる対象だ。「善悪の彼岸」とは、善悪を当たり前の前提として使うのをやめ、その『向こう側』に立って、道徳そのものを観察する位置のことだ。
発見2: 哲学者は「真理」を求めるふりをして、自分の欲望を正当化していた
ニーチェは、これまでの哲学者たちにも疑いの目を向ける。彼らは、客観的で中立な真理を冷静に探求しているふりをしてきた。だがニーチェに言わせれば、それは見せかけだ。【解釈】どんな哲学も、その哲学者の無意識の欲望、偏見、生き方の表現にすぎない、と彼は言う。哲学者は「これが真理だ」と主張するが、実際には、自分がそう信じたい、そうあってほしいと願うものを、理屈で飾り立てているだけだ。だからニーチェは、哲学の主張を、その『中身』だけでなく、「誰が、どんな欲望から、それを言っているのか」という観点から読む。重要なのは「何が真理か」だけでなく、「なぜこの人は、それを真理と呼びたがるのか」だ。この、思想の背後にある動機を疑う読み方は、後の心理学や思想分析に大きな影響を与えた。
発見3: 疑いの先にあるのは、虚無ではなく「価値の創造」である
善悪を疑い、道徳を相対化すると、「では何を信じればいいのか、何でもありになるではないか」という不安が生まれる。ニーチェは、その先で立ち止まらない。【解釈】彼が目指すのは、すべての価値を否定して虚無に陥ることではない。古い、受け継がれただけの価値を疑った上で、自分自身で新しい価値を創造することだ。与えられた善悪を鵜呑みにする受け身の人間から、自分の価値を自ら打ち立てる能動的な人間へ。「善悪の彼岸」に立つとは、無責任に何でも肯定することではなく、価値の作者になるという、重い責任を引き受けることだ。だからニーチェの道徳批判は、破壊のための破壊ではない。古い建物を壊すのは、自分の足で立つ新しい建物を建てるためだ。彼の哲学は、絶対の基準を失った現代において、「では自分は何を価値とし、どう生きるのか」を、各自が引き受けて考えよ、という挑発なのである。
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