父を殺したのは誰か——罪は誰のものか

カラマーゾフの兄弟(フョードル・ドストエフスキー)の深掘り

表面上は父殺しのミステリーだが、ドストエフスキーの関心は「誰が手を下したか」ではなく「罪は誰のものか」にある。この問いの立て方そのものが、彼の倫理の核心を突いている。

発見1: 直接手を下した者と、殺意を育てた者は別である

物語では、激情の長男ドミートリイが、父と激しく対立し殺意を口にしていたため、犯人として逮捕される。だが真相はより複雑で、実際に手を下したのは別の人物だ。さらにその人物を動かしたのは、次男イワンの「すべては許される」という思想だった。【解釈】ここでドストエフスキーは、罪を一人に押しつける単純な構図を解体する。手を下した者、殺意を口にした者、殺意を正当化する思想を吹き込んだ者——父の死には、複数の人間が異なる形で関わっている。「誰が殺したか」という問いは、「誰の手が動いたか」だけでは答えられない。

発見2: 思想が、人を殺す——イワンの罪

実際に手を汚していないイワンが、最も深く苦しむのは、自分の思想が現実の殺人を引き起こしたと気づくからだ。彼の「神がいなければすべては許される」という観念を、ある人物が真に受け、それを父殺しの正当化に使った。【解釈】イワンは一滴の血も流していない。だが彼の思想が、別の手を動かした。ドストエフスキーの一貫した主題がここにもある——観念は無害な遊びではなく、現実に人を殺しうる。「罪と罰」で理論が殺人を生んだように、ここでは「すべては許される」という思想が父殺しを生む。手を汚さない知性の罪は、手を汚す罪より見えにくいぶん、いっそう恐ろしい。

発見3: 「すべての人は、すべてに対して罪がある」という連帯責任の思想

この作品が最終的に示すのは、罪を個人に切り分けて一人を罰すれば済む、という考えの否定だ。作中、聖なる人物ゾシマ長老が語る言葉が、その核心にある——「すべての人は、すべての人に対して、すべてのことについて罪がある」。【解釈】これは、誰も無関係ではいられない、という思想だ。父を憎んだ者、殺意を見過ごした者、冷たい思想を広めた者——一つの死には、社会全体の無数の小さな悪意や無関心が織り込まれている。直接の犯人だけを罰して「これで解決」とするのは、自分も含めた全員の関与から目をそらすことだ。ドストエフスキーは、罪を他人のものとして切り離すのではなく、自分もその一部だと引き受けることからしか、本当の倫理は始まらないと考えた。父殺しのミステリーは、最後に、人間は互いの罪にどこまで責任があるか、という壮大な問いへと開かれていく。

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