偽装の系譜——ハムレットの狂気、葉蔵の道化、檸檬の悪漢
一冊だけ読んでいては見えない発見がある。シェイクスピアの王子は狂気のふりをし、太宰の葉蔵は道化を演じ、梶井の「私」はなに食わぬ顔で爆弾犯のふりをする。300年離れた三つの「ふり」を一枚に並べると、偽装という生存技術の系譜図が浮かび上がり、三作の結末がなぜああなったのかが、一つの法則で説明できてしまう。
三人の偽装者——まず事実を並べる
ハムレットは父の亡霊に会った直後、親友たちに「これから奇妙にふるまうかもしれない」と予告して狂気を装い、監視だらけの宮廷で本心を隠す。人間失格の大庭葉蔵は、幼少期から道化を発明し、わざと滑稽にふるまうことで「人間」のふりをして生き延びる。檸檬の「私」は、丸善の画集の上に檸檬を置き、それを爆弾に見立てて「なに喰わぬ顔をして外へ出る」——黄金色の爆弾を仕掛けた悪漢のふりをして街を歩く。三作とも、物語の中心に「本当の自分と違う何かを演じること」が据えられている。
発見1: 偽装の下に何があるかで、悲劇かどうかが決まる 発見
同じ「ふり」でも、構造は正反対である。ハムレットの偽装は「正気を隠す」——守るべき本心と目的が偽装の下に実在し、偽装は期限つきの道具にすぎない。葉蔵の偽装は「空白を隠す」——道化の下に守るべき自分がそもそも無く、偽装そのものが本体である。【解釈】この一点が二作の悲劇の質を分ける。道具としての偽装は脱げば済むが、本体としての偽装は脱いだら何も残らない。だから葉蔵の最後の写真は無表情(偽装の停止=人間の停止)になる。そして檸檬の「私」は第三の形態を発明している——偽装の下に隠すものが無いなら、偽装の下に置く「企み」を自分で作ればいい。檸檬という爆弾の空想は、空白の上に自前ででっち上げた本心であり、偽装はここで初めて遊びになる。
発見2: 偽装は必ず「検出者」を生み、検出できるのは同類だけである 発見
葉蔵の道化を見破ったのは、教師でも親でもなく、クラスで最も目立たない竹一だった(「ワザ。ワザ」)。ハムレットの狂気を最初から疑い続けたのは、廷臣でも母でもなく、クローディアスである(オフィーリアとの対話を盗み聞きしたあと、あれは狂気には見えぬ、と独りごちる)。【解釈】ここに不気味な対称性がある。クローディアスは「微笑みながら王を殺した男」——宮廷でただ一人、全力で偽装を運用している人間だ。つまり二作とも、偽装を検出するのは善人でも賢者でもなく、自分も偽装している者なのである。偽装者だけが偽装のコストと手触りを知っているから、他人の演技の継ぎ目が見える。逆に言えば、偽装で生きる人間にとって最も危険な相手は敵ではなく同類であり、この法則は職場の処世から詐欺の見破りまで、現代でもそのまま動いている。
発見3: 結末を分けたのは「観客の有無」である 発見
三作の偽装の出口を並べる。ハムレットは最後に偽装を脱ぎ、死の間際、親友に「私の物語を正しく伝えてくれ」と頼む——偽装は道具で終わり、実名が回収される。葉蔵は偽装が止まった瞬間に「人間、失格」へ落ちる——脱ぐべき素顔がなかったからだ。そして檸檬の「私」だけが、偽装したまま、誰にも見破られず、微笑して街を下っていく。【解釈】三つの結末を分けた変数は、意志の強さでも才能でもなく、観客の有無である。ハムレットの偽装は宮廷中に観客がいて、検出と対抗偽装の軍拡競争になった。葉蔵の偽装は家庭にも学校にも酒場にも観客がいて、検出の恐怖が人生の基調音になった。檸檬の悪漢ごっこだけは、観客がゼロだった——丸善の店員も街の誰も、彼が「爆弾犯」であることを知らない。誰にも見せない偽装だけが、評価も検出もされず、純粋な遊びでいられる。300年分の偽装の文学が指している結論は静かで鋭い——人がふりをして苦しむのは、ふりをするからではなく、ふりに観客がつくからである。