## マルクス・アウレリウスの『自省録』に関連する歴史上の事件
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マルクス・アウレリウスと「五賢帝」の時代
マルクス・アウレリウスは、ローマ帝国の最盛期とされる「五賢帝」時代(96年 – 180年)の最後の皇帝でした。彼は、養父であり前任者であったアントニヌス・ピウスの治世を間近で見ながら、統治術やストア哲学を学びました。アントニヌス・ピウスの時代は、ローマ帝国にとって比較的平和で繁栄した時代であり、マルクス・アウレリウスはこの安定した時代を引き継ぐことになりました。
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ゲルマン人とのマルコマンニ戦争
しかし、マルクス・アウレリウスの治世は、前任者たちの時代とは大きく異なり、内憂外患に悩まされることになります。160年代半ばから、ゲルマン人の一部族であるマルコマンニ族が、ローマ帝国の属州であったパンノニア(現在のハンガリー周辺)に侵入を開始しました。この戦いは、マルコマンニ戦争(166年 – 180年)として知られ、マルクス・アウレリウスは、ローマ軍を率いて自ら戦場へと赴くことを余儀なくされました。
『自省録』には、マルコマンニ戦争の最中に書かれたとされる記述が多く見られます。過酷な戦場の環境、疫病の蔓延、そして絶え間ない戦いのプレッシャーの中で、マルクス・アウレリウスはストア哲学の教えを心の支えとしていました。『自省録』には、戦場での苦難や死に対する恐れ、そして統治者としての責任と重圧の中で、自らの心を律し、理性と徳に従って生きることを説く言葉が記されています。
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ローマ帝国における疫病の流行
マルコマンニ戦争の最中、ローマ帝国は深刻な疫病の流行に見舞われました。この疫病は、通称「アントニヌスの疫病」と呼ばれ、マルクス・アウレリウスの共同皇帝であったルキウス・ウェルスもこの疫病で命を落としたとされています。「アントニヌスの疫病」の正体は、現在でもはっきりと分かっていませんが、天然痘または麻疹であった可能性が高いと考えられています。
疫病の流行は、ローマ帝国に壊滅的な打撃を与えました。人口が激減し、経済活動は停滞し、軍隊の戦力も低下しました。マルクス・アウレリウスは、疫病の流行によって引き起こされた混乱と苦しみを目の当たりにし、人間の無力さと死の避けられない運命について深く考えさせられました。『自省録』には、疫病の流行に対する彼の苦悩と、ストア哲学に基づいた死生観が反映されています。
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コンモドゥス帝の治世と『自省録』の意義
マルクス・アウレリウスは、180年にマルコマンニ戦争の陣中で病死しました。彼の死後、息子のコンモドゥスが皇帝に即位しましたが、コンモドゥスは暗愚な暴君として知られており、彼の治世はローマ帝国の衰退を決定的なものにしました。
マルクス・アウレリウスが書き残した『自省録』は、彼個人のための哲学的覚書であり、出版を意図したものではありませんでした。しかし、この書は、後世の人々に大きな影響を与え、ストア哲学の重要なテキストとして、現代に至るまで読み継がれています。混迷を極める時代の中で、理性と徳に従って生きることの大切さを説いた『自省録』の言葉は、現代社会においても、多くの人々に生きる指針を与えてくれるのではないでしょうか。