フィヒテの全知識学の基礎の原点
フィヒテ哲学の根本問題
フィヒテ哲学の根本問題は、カント哲学の基礎づけの根本問題、すなわち「いかにして我々は、経験的内容とは独立な、アプリオリで普遍妥当的な認識を持つことができるのか」という問いに対する解答を、カントとは異なる仕方で与えようとする試みの中に求められます。カントは、この問題に対し、人間の認識能力の側にあるアプリオリな認識形式(感性における時間と空間、悟性における12の範疇)が、経験の内容を構成するという形で解答を与えました。
フィヒテの批判的出発点:自己意識の事実
フィヒテは、カントのこの解答に満足しませんでした。カントは、認識の対象である「物自体」を、我々の認識能力とは独立に存在するものとして想定しながらも、その「物自体」を我々が認識することはできないとしました。しかしフィヒテは、このような「物自体」という概念は、認識の根拠を認識の外部に置いてしまうことで、真の意味での認識の基礎づけにはならないと考えたのです。
そこでフィヒテは、「物自体」を想定することなく、認識の基礎づけを行うためにはどうすればよいのかを考えました。フィヒテが出発点としたのは、「私は思う」というデカルトの命題に類似した、「私は私である」という自己意識の事実でした。フィヒテにとって、この「自我」こそが、あらゆる認識の基礎となるべきものであり、「物自体」のような外部の根拠を必要としない、絶対的な出発点となりうるものだったのです。
自己意識の分析:自我と非自我の分離と対立
フィヒテは、この「自我」を、単なる心理的な実体としてではなく、自ら自身を規定する活動的な原理として捉えました。そして、この自我の活動の分析を通じて、認識の成立過程を明らかにしようと試みたのです。フィヒテによれば、自我は、まず自ら自身を意識することによって、それと同時に自己とは異なる何か、すなわち「非自我」を意識します。この自我と非自我の分離と対立こそが、あらゆる認識の基礎となる原経験です。
フィヒテは、この原経験を、「自我は自我をpositする」という命題と、「自我は非自我をpositする」という命題によって表現しました。「positする」とは、単に「存在することを認める」という意味ではなく、「自己活動によって設定する」という意味です。つまり、自我は、自らの活動を通じて、自己と非自我を対立的に設定し、そのことによって初めて自己意識を獲得するというわけです。
全知識学の基礎:自我の自己限定と認識の成立
しかし、自我は無限の活動力を持つわけではありません。非自我に対峙することで、自我は自らの有限性を意識せざるを得なくなります。この自我の有限性を意識することが、「自我は自我を非自我において限定する」という、フィヒテ哲学における重要なテーゼへとつながっていきます。
フィヒテによれば、自我は、この自己限定を通じて、はじめて認識活動を行うことができるようになります。なぜなら、自我は、自己を限定するものとしての非自我を、徐々に克服していくことによって、自己の能力を拡大し、世界についての知識を獲得していくことができるからです。