フィヒテの全知識学の基礎と時間
フィヒテの自我論における時間
フィヒテは、カントの批判哲学を継承しつつも、その出発点をより根源的なものへと radikalisieren(ラディカリズム化)しようとしました。カントは、物自体というものを仮定し、我々が認識しうるものは、この物自体に感性が受動的に影響を受けることで成立する現象のみであるとしました。しかし、フィヒテはこの物自体という考え方を批判し、意識の働き、すなわち自我の働きこそが認識の基礎であると主張しました。
フィヒテは、『全知識学の基礎』において、自我が自ら自身を規定すること(自己意識)を出発点として、その後に非我を、そして世界を認識していく過程を論理的に展開していきます。この過程において、時間もまた自我の働きによって構成されるものとして捉えられます。
時間意識の成立
フィヒテによれば、我々が何かを意識するためには、意識作用と同時に、意識作用とは区別された対象が必要となります。なぜなら、もし意識作用と対象が区別されなければ、意識はそれ自身を意識することができず、意識作用は空虚なものとなってしまうからです。
フィヒテは、この意識作用と対象の区別を、「X = X」という同一律の形式によって説明しようとします。この式において、左辺の「X」は意識作用を、右辺の「X」は意識の対象を表しています。
しかし、意識作用と対象は本来不可分なものであり、厳密に言えば両者を区別することはできません。そこで、フィヒテは、両者の区別に「時間」という概念を持ち込みます。すなわち、意識作用が対象を規定するよりも前に、意識作用はまず自分自身を規定します。この自己規定と対象規定との間の時間的先後関係によって、意識作用と対象の区別が可能になるというわけです。
時間と想像力
フィヒテは、この時間的な区別を生み出す働きを「想像力」であると説明します。想像力は、意識作用と対象を本来不可分なものであるにもかかわらず、両者を分離し、時間的な間隔を置くことで、意識作用が対象を規定することを可能にする働きであると言えます。
時間概念の限界
ただし、フィヒテは、時間という概念もまた、自我の有限性に基づくものであることを指摘しています。時間という概念は、意識作用と対象を区別するために必要なものではありますが、真の実在においては、両者は不可分なものであり、時間という概念を超越していると考えられます。