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ピレンヌのベルギー史のメカニズム

ピレンヌのベルギー史のメカニズム

メカニズム1:ローマ化とゲルマン化の相克

アンリ・ピレンヌは、ベルギーの歴史をローマ文明とゲルマン文明の相克という視点から捉えました。彼は、ローマ帝国の支配によってベルギー北部にまでローマ文化が浸透し、都市や交易が発展したと主張しました。しかし、5世紀に入るとゲルマン民族の大移動によってローマ帝国が崩壊し、ベルギーはフランク王国などゲルマン系の国家に支配されることになります。ピレンヌは、このゲルマン民族の侵入によってローマ文明が破壊され、ベルギーは再び農村中心の社会に逆戻りしたと論じました。

メカニズム2:南北の経済的・文化的差異

ピレンヌは、ベルギーを流れる言語境界線(フランス語圏とフラマン語圏の境界線)を重視し、これが単なる言語の違いではなく、経済活動や文化の差異をも反映していると指摘しました。彼は、北部フランドル地方は毛織物工業などの商業活動が盛んで、都市を中心に発展したのに対し、南部ワロン地方は農業中心の経済構造が続き、封建領主の支配が色濃く残ったと論じています。

メカニズム3:都市と領主の対立と共存

ピレンヌは、中世ベルギーにおいて、都市と領主の関係が対立と共存という複雑な様相を呈していたことを指摘しました。彼は、都市が経済力を背景に自治権を獲得しようと努める一方で、領主は都市を支配下に置いてその富を収奪しようと画策したと論じています。

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