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デカルトの省察のテクスト

## デカルトの省察のテクスト

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第一省察 これまで真実と思われたことについて懐疑を提起する

 この省察は、「私が真であると認めることのできないことをすべて虚偽として退ける」という方法で確実な知識の基礎を見出す試みです。デカルトは、感覚が時に我々を欺くこと、夢と現実の区別がつかないことがあることなどを指摘し、感覚的知識の不確実性を論じます。

 さらに、数学的真理でさえ、全能の神が存在すると仮定すれば、神が我々を欺いている可能性を排除できないと主張します。「私が計算しているとき、あるいは他のより単純なことを考えているときでさえ、私が何か存在していることは、明らかに疑う余地がないほど確実であり明晰であるように思われる。だが、私に備わっている自然本性について私が少しも知らなかったり、あるいはむしろ私がその自然本性を誤って理解していたりして、実は私が存在しないと考えるべきときに私が存在すると考えるように、神が私に働きかけていると仮定するなら、私が非常に欺かれやすいものであることは明らかである。だから、他のすべての事柄について私がこれまで抱いてきた意見よりもこの意見、すなわち私が何かであるという意見を固く、確実なものとするために、この悪しき企ての創作者であり父であると私が考えた神について、私がなしうるかぎり注意深く、かつ繰り返し考えなければならない。」(『省察』岩波文庫版、谷川多佳子訳)

 このように、第一省察では、あらゆる知識が懐疑の余地なしに確実だと言えるのかという問題提起がなされます。

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第二省察 人間の精神の本性について。精神は肉体よりも認識しやすいこと

 第一省察で徹底的な懐疑に陥ったデカルトですが、第二省察では、「私は疑っている」「私は欺かれている」ということは「私が何か考えている」ということであり、「私が何か考えている」ということは「私が存在する」ということである、という点に気づきます。有名な「我思う、ゆえに我あり」のテーゼです。

 さらにデカルトは、自分が何であるかを考察し、自分は身体ではなく、思考するものであると結論づけます。「私は、私が何であるかを私がこのように考察している間、たまたま私が何らかのものを想像したとしても、そのことから私がその想像するものの何ものでもないということは少しも帰結しないし、また、それによって真理の認識を妨げるようなものは何も付け加わらない。それどころか、この認識を害するおそれのあるものをすべてそこから取り除くために、私は今や断固として、私の精神をあらゆる感覚的対象から引き離して、私がこれらの対象をこれまで私が外的なものとして捉えていたよりも、より外的なものとして、すなわち私の精神に属さないものとして、注意深く、なお一層注意深く、私から切り離そう。」(『省察』岩波文庫版、谷川多佳子訳)

 この第二省察では、自己の思考活動の確実性から出発して、自己を身体ではなく精神として捉え直すことが試みられます。

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第三省察 神の存在について

 第三省察では、神の存在証明が試みられます。デカルトは、「観念」を考察し、観念にはその起源に応じて三つの種類があると考えます。一つ目は、生得的な観念、二つ目は、外的なものから受け取る観念、三つ目は、自ら作り出した観念です。

 そして、神という完全な存在の観念は、不完全な存在である自分自身に由来するものではなく、外的なものからもたらされたものでもない、したがって、この観念は神自身から与えられたものだと結論づけます。「それゆえ残された唯一の選択肢は、この観念が私に生来的に備わっているというものであり、ちょうど私が作られた者であるという観念が私自身に生来的に備わっているのと同じである。」(『省察』岩波文庫版、谷川多佳子訳)

 このように、第三省察では、神の存在証明を通して、懐疑を乗り越えようとする試みがなされています。

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第四省察 真理と虚偽について

 第四省察では、真理と虚偽の問題、そして、誤謬の原因について考察が深められます。デカルトは、誤謬の原因は、人間の認識能力の有限性と、意志の無限性との間の不調和にあると結論づけます。

 「というのも、私が誤るとすれば、私が不完全なもの、すなわち依存的な存在であることは明らかであり、私が存在を与えられているのと同様に、私が誤らないように存在を与えられているのでなければ、私が誤るということは矛盾である。あるいは、もっと単純に言えば、誤謬は欠陥であり、完全な神が私に欠陥を与えたり、あるいは欠陥として作用したりすることは、明白な矛盾である。」(『省察』岩波文庫版、谷川多佳子訳)

 このように、第四省察では、神は完全であり、人間に誤謬の原因を与えたのではないこと、誤謬は人間の側の問題であることが論じられます。

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第五省察 物質的なものの本性について。再び神の存在について

 第五省察では、再び神の存在証明が試みられます。今度は、数学的真理の永遠性と不変性に焦点を当て、この真理を保証する存在として神を捉え直します。

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第六省察 物質的なものの存在について。精神と肉体の区別について

 第六省察では、物質的なものの存在について論じられ、精神と肉体の実在的区別が主張されます。デカルトは、感覚を通して物質的なものが存在するという考えを検討し、感覚がもたらす情報は、精神において生じるものであり、物質的なものの存在を直接的に証明するものではないと指摘します。

 しかし、一方で、神は我々を欺くことはないと想定できるので、感覚が物質的なものの存在を示唆するものである以上、物質的なものは存在すると結論づけます。そして、精神と身体はそれぞれ独立した実体であり、相互に作用しあう関係にあると主張します。

 以上が、「デカルトの省察」のテクストの内容です。それぞれの省察は、互いに関連し合いながら、デカルトの哲学体系を構築しています。

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