Skip to content Skip to footer

ソフォクレスのオイディプス王の対極

ソフォクレスのオイディプス王の対極

対極になりうる作品群

「オイディプス王」の対極に位置する作品を一つに絞ることは困難です。というのも、ギリシャ悲劇の傑作として名高い「オイディプス王」は、運命と自由意志、知識と無知、そして人間の尊厳と限界といった普遍的なテーマを扱っており、その対極となりうる作品は多岐にわたるからです。

運命 vs. 自由意志:「サルトル『嘔吐』」

「オイディプス王」で描かれるのは、あらかじめ定められた運命に翻弄される人間の悲劇です。対して、20世紀フランスの実存主義哲学者サルトルの小説「嘔吐」は、人間の絶対的な自由と、それに伴う責任の重さを主題としています。

「嘔吐」の主人公ロカンタンは、存在の偶然性と無意味さに直面し、吐き気を催すような不安に襲われます。彼は、オイディプスのように運命によって規定された存在ではなく、自らの行動によって自身の存在を形成していく自由を持つ存在として描かれています。

知識 vs. 無知:「シェイクスピア『ハムレット』」

「オイディプス王」は、真実を知ろうとする探求心と、真実を知ることによって招かれる悲劇を描いています。一方、シェイクスピアの悲劇「ハムレット」では、復讐すべきか否かという葛藤の中で、主人公ハムレットは「熟慮」と「逡巡」を繰り返します。

ハムレットは、父の死の真相を知りながらも、確固たる証拠をつかめないまま、行動を起こせずに苦悩します。彼の苦悩は、オイディプスの「知ること」の悲劇とは対照的に、「知らなさすぎること」の悲劇として描かれています。

人間の尊厳 vs. 人間の限界:「カフカ『変身』」

「オイディプス王」は、高貴な身分に生まれながらも、運命のいたずらによって悲劇的な末路を辿るオイディプスの姿を通して、人間の尊厳と限界を描いています。対して、カフカの小説「変身」は、ある朝、巨大な虫に変身してしまった男グレーゴル・ザムザの姿を通して、現代社会における人間の疎外とアイデンティティの喪失を描いています。

「変身」では、人間の尊厳や理性は完全に剥奪され、虫へと変貌した主人公は家族からすら疎まれ、孤独な死を迎えます。これは、「オイディプス王」で描かれる人間の尊厳と限界に対する、より現代的な、そしてある意味では、より残酷な解釈と言えるかもしれません。

Amazonで詳細を見る

Leave a comment

0.0/5