シュティルナーの唯一者とその所有の対極
ヘーゲルの「法の哲学」における理性と国家
マックス・シュティルナーの「唯一者とその所有」は、個人を絶対視し、国家や社会、道徳といったあらゆる外的権威を否定する思想を唱えました。その対極に位置する思想として、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの「法の哲学」を挙げることができます。
ヘーゲルは、理性こそが現実の根源であり、歴史は理性が自己実現していく過程であると考えました。そして、理性の最高形態である「客観的精神」は、家族、市民社会、国家という三つの段階を経て発展するとしました。
ヘーゲルにとって、国家は単なる個人の集合体ではなく、理性が具現化した最高形態であり、「地上の神」とさえ表現されました。国家は、個人の権利や自由を保障するだけでなく、個人が真の自由を実現するための倫理的な共同体としての役割を担います。
マルクスの唯物史観における共同体と革命
カール・マルクスの唯物史観もまた、シュティルナーの個人主義とは対照的な視点を提供します。マルクスは、人間は社会的な関係性の中で生きているのであり、個人の意識や行動は、その社会における物質的な生産様式によって規定されると考えました。
マルクスは、歴史は階級闘争の歴史であると捉え、資本主義社会における労働者階級の抑圧を克服するために、プロレタリア革命による共産主義社会の実現を構想しました。共産主義社会では、私有財産制が撤廃され、生産手段が社会全体のものとなることで、人間の疎外は克服され、真の自由と平等が実現するとされました。
このように、ヘーゲルの理性に基づく国家論や、マルクスの唯物史観に基づく共同体論は、いずれもシュティルナーの個人主義とは対照的な立場から、国家や社会の意義を強調しています。