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シェイクスピアの『リチャード二世』の思想的背景

## シェイクスピアの『リチャード二世』の思想的背景

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神の恩寵による王権

『リチャード二世』において、王権は神の恩寵によって与えられた神聖なものとして描かれています。リチャード自身、自分が神によって選ばれた王であると強く信じています。劇中で彼はこう宣言します。「獅子の足元で兎が戯れるように、私は神の足元で安全なのだ」。この言葉は、王としての自分の立場は神の権威によって守られているという、当時の広く信じられていた思想を反映しています。

しかし、神の恩寵による王権の思想は、同時に王の責任についても問いかけています。王は神の代理人として、正義と慈悲をもって統治する義務を負っていると考えられていました。リチャードの失脚は、彼がこの義務を怠り、私利私欲のために権力を行使した結果として描かれています。彼の浪費や、民衆への重税、そして法を無視した恣意的な支配は、神の恩寵を受けた王にふさわしくない行為として、劇中で批判的に描かれています。

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自然秩序と政治秩序

エリザベス朝の人々は、世界は神によって創造された秩序によって成り立っていると信じていました。この秩序は、宇宙から人間社会、そして自然界に至るまで、あらゆるものに適用されました。政治秩序もまた、この自然秩序の一部と見なされ、王は神の代理人として、この秩序を維持する役割を担っていました。

リチャードの行為は、この自然秩序を乱すものとして描かれています。彼が自分の権力を乱用し、正当な後継者であるはずのボリングブルックを追放したことは、自然秩序への重大な違反と見なされました。この秩序の崩壊は、劇中で天候の異変や動物の異常行動といった形でも象徴的に描かれています。

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運命と自由意志

『リチャード二世』は、運命と自由意志の対比も重要なテーマとして扱っています。リチャードは、自分の運命はすでに神によって定められていると信じており、自らの運命に抵抗しようとしません。彼は自分の没落を、避けられない運命として受け入れているかのように見えます。

一方、ボリングブルックは、自らの行動によって運命を切り開こうとする人物として描かれています。彼は、リチャードの不当な扱いに対して、積極的に行動を起こし、最終的に王位を奪取します。ボリングブルックの行動は、当時の文脈では、必ずしも正当なものではありませんでしたが、彼は自らの意志と行動によって運命を変えられる可能性を示唆しています。

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