## エリアーデの聖と俗の感性
エリアーデにおける「聖」と「俗」
ルーマニア出身の宗教史家ミルチャ・エリアーデは、その主著『聖と俗』(1957) において、宗教経験の本質を「聖なるもの」と「俗なるもの」の対比構造によって明らかにしようと試みました。エリアーデによれば、「聖」とは、日常的な空間とは異質な、超越的な力や存在が顕現する場所あるいは時間として経験されるものです。
聖なる空間の顕現
エリアーデは、「聖なる空間」の概念を説明するために、オーストラリアの先住民や古代社会における「聖なる中心」の概念を考察しています。彼らにとって、世界の中心軸となる「聖なる中心」は、神々が天上から地上に降り立った場所であり、そこから世界全体に秩序と生命力が供給されると信じられていました。
この「聖なる中心」は、必ずしも物理的な中心を意味するものではなく、あくまでも宗教的な経験に基づいて聖化された空間を指します。例えば、寺院や神社、教会といった宗教施設は、俗なる空間から切り離された「聖なる空間」として認識されます。
聖なる時間の経験
エリアーデはまた、「聖なる時間」についても論じています。彼は、古代社会における祭儀や儀礼が、単なる過去の出来事の再現ではなく、「聖なる時間」への回帰を目的としていたと主張します。
例えば、新年や収穫祭といった祭りは、周期的に訪れる「聖なる時間」を体験し、世界の再生と秩序の回復を祈願する機会となっていました。こうした「聖なる時間」の経験は、日常的な時間とは異なる、超越的な時間への参与を可能にするものでした。
現代社会における聖と俗
エリアーデは、現代社会においても、「聖」と「俗」の区別は依然として重要な意味を持ち続けていると指摘しています。彼は、現代社会におけるスポーツや芸術、政治といった分野においても、「聖なるもの」の顕現が見られると主張します。
例えば、熱狂的なスポーツ観戦やコンサート体験は、日常的な時間と空間を超越した「聖なる時間」や「聖なる空間」の経験と言えるかもしれません。このように、エリアーデの「聖」と「俗」の概念は、現代社会における宗教現象を理解する上でも重要な視点を提供しています.