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サルトルの存在と無の表象

## サルトルの存在と無の表象

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意識の虚無性

サルトルは、意識の本質を「無」であると捉えました。 彼の哲学において、「無」とは単なる「何もない」状態ではなく、積極的な意味を持つものです。サルトルは、意識は常に何かに向かっており、対象を「意識する」その瞬間に、意識と対象との間に距離が生じると考えました。この距離こそが「無」であり、意識は対象を捉えようとする過程で、常にこの「無」を伴っているのです。

例えば、目の前にりんごがあるとします。私たちがそのりんごを「りんご」として認識する時、私たちの意識は「りんご」という概念を立ち上げ、目の前の物体と結びつけます。この時、意識と対象であるりんごとの間にわずかな距離が生じます。これがサルトルの言う「無」です。

意識は対象を完全に捉えることができず、常にこの「無」を介して対象と向き合わざるを得ません。 これが、サルトルが意識を「虚無的」と表現する所以です。

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自由と責任

意識の虚無性は、人間存在の自由と責任に深く関わっています。 サルトルは、「人間は存在が本質に先立つ」とし、人間にはあらかじめ決められた本質が存在しないと主張しました。 人間は自由な存在であり、自らの選択と行動によって自らを規定していくことができるのです。

しかし、この自由は同時に重い責任を伴います。 なぜなら、私たちには自分自身を規定する以外の選択肢はなく、その選択の結果は全て自己責任となるからです。 サルトルは、この責任の重圧から逃れようと、自己を欺いたり、他者に依存したりする「自己欺瞞」に陥る危険性を指摘しました。

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他者の眼差し

サルトルは、他者の存在が自己認識に大きな影響を与えることを指摘しました。 他者が私たちを見る「眼差し」は、私たちを客体化し、私たち自身の自由を脅かす可能性があります。

例えば、誰かに「あなたは優しいね」と言われたとします。 この時、私たちは「優しい」という他者から見た自分の姿に固定されそうになる感覚を覚えます。 このように、他者の眼差しは私たちを特定の役割やイメージに閉じ込め、私たちの自由な存在を脅かす可能性があります。

しかし、サルトルは他者との関係を完全に否定したわけではありません。 他者との関係の中でこそ、私たちは自己の自由と責任を自覚することができるからです。 重要なのは、他者の眼差しに支配されることなく、あくまで自己の主体性を保ち続けることです。

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