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サルトルの存在と無の思考の枠組み

## サルトルの存在と無の思考の枠組み

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存在が本質に先立つ

サルトルは、「存在と無」において、伝統的な哲学の根本的な前提に挑戦しました。伝統的な哲学、特に西洋哲学では、物事にはあらかじめ決められた「本質」が存在し、その本質が個々の存在に先立つと考えられてきました。例えば、ナイフの本質は「切る」ことであり、その本質ゆえにナイフは存在すると考えられてきました。

しかし、サルトルは、人間存在においては、この関係が逆転すると主張します。人間は、まず「存在」し、その後で自らの行動や選択を通して自らの「本質」を創造していくというのです。言い換えれば、人間にはあらかじめ決められた本質はなく、自らが何者であるかを自由に決定していくことができるということです。

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意識の虚無性と自由

サルトルは、人間の意識を「無」と表現しました。これは、意識自体には具体的な内容がなく、常に何かに向かって開かれている状態であることを意味します。この意識の虚無性こそが、人間の自由の根源となります。意識は、特定の本質や存在によって規定されていないため、無限の可能性に向かって開かれているのです。

しかし、この自由は同時に、重い責任を伴うものでもあります。人間は、自らの人生に対して全責任を負わなければならず、その選択によって自らを規定していくからです。

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対自存在と他者の眼差し

サルトルは、自己と他者の関係についても深く考察しました。彼は、他者が現れることによって、自らの存在が客体化され、「対自存在」として意識されると説明しました。 例えば、誰かの視線を感じたとき、私たちは自らを「見られている存在」として意識するようになります。

この「他者の眼差し」は、私たちの自由を脅かすものでもあります。なぜなら、他者は私たちを特定のイメージに固定しようとし、私たちの自由な選択を制限しようとするからです。しかし、サルトルは、他者との関係は対立と葛藤に満ちたものでありながらも、同時に、私たち自身の存在を豊かにする可能性も秘めているとしました。

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