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メリアムの政治権力の対極

## メリアムの政治権力の対極

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ミシェル・フーコー「監獄の誕生」 権力の毛細血管

ハロルド・ラスウェルが「誰が、何を、誰に、どのように」という問いを政治学に投げかけ、ロバート・ダールが「AがBに~させる時、AはBに対して権力を持っている」と定義したように、政治学における権力研究は、行為主体と影響力の行使に焦点を当ててきました。これは、権力の所在を明らかにし、その行使を分析することを目的とする、言わば「権力地図」の作成とでも呼ぶべき試みです。

しかし、ミシェル・フーコーは、このような権力観に根本的な疑問を呈します。フーコーにとって、権力は単に国家や特定の個人・集団が独占的に保有するものではなく、社会のあらゆる関係性の中に遍在するものです。それは目に見える「力」として行使されるのではなく、規律、監視、正常化といった技術を通じて、人々の行動、思考、感情を間接的に規定する「権力作用」として現れます。

「監獄の誕生」でフーコーは、近代社会における刑罰の変遷を分析することで、この権力観を鮮やかに描き出します。かつて公開処刑に象徴されたような、肉体への直接的な暴力による刑罰は、近代に入ると、監獄という閉ざされた空間における「規律訓練」へと転換していきます。囚人たちは、常時監視され、時間割に沿って生活し、規則に従って行動することを強制されます。こうして彼らは、自らを規律化し、社会の「規範」に適合するように「矯正」されていくのです。

重要なのは、このような権力の作用は、監獄という物理的な空間を超えて、学校、工場、病院など、近代社会のあらゆる場所に浸透しているということです。フーコーはこれを「パノプティコン」という概念を用いて説明します。パノプティコンとは、中央の見張り塔からすべての監房を見渡せるように設計された円形監獄のことですが、フーコーはこの建築様式を、近代社会における権力関係のメタファーとして捉え直します。

つまり、私たちは常に「見られているかもしれない」という意識のもとで行動し、その結果、自ら規律に従い、正常化していく。こうして権力は、目に見える形ではなく、人々の内面にまで浸透し、彼らの行動を「自由意志」に基づくものと錯覚させながら、効果的にコントロールするようになるのです。

このように、「監獄の誕生」は、従来の政治学における権力観を根底から覆し、社会の毛細血管にまで入り込んだ権力の微細な作用を明らかにした画期的な著作です。フーコーの分析は、私たちが当然視している社会の仕組みや常識、さらには私たち自身の内面にまで、権力の網の目が張り巡らされていることを痛感させ、真の自由とは何かを問いかけるものです。

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