## ピレンヌのベルギー史の世界
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古代
アンリ・ピレンヌは、古代におけるベルギー地域を、ローマ帝国の一部として捉えていました。彼は、ローマ帝国の支配が、この地域の言語、文化、経済に大きな影響を与えたことを強調しています。特に、ローマ帝国によって持ち込まれたラテン語の影響は大きく、これが後のフランス語の形成に繋がっていきました。
また、ピレンヌは、ローマ帝国の支配下で、ベルギー地域が経済的に繁栄したことを指摘しています。ローマ帝国の道路網や交易網に組み込まれたことで、この地域は、農業、商業の中心地として発展しました。
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中世
ピレンヌは、中世初期におけるフランク王国時代を、ベルギー地域の独自性の芽生えとして捉えていました。フランク王国は、現在のベルギー、フランス、ドイツなどにまたがる広大な王国でしたが、その支配は、地域によって一様ではありませんでした。特に、言語の違いは大きく、これが後のフランスとドイツの分岐点となっていきます。
ピレンヌは、中世盛期以降、ベルギー地域が、フランドル伯領、ブラバント公国、リエージュ司教領といった、多くの小国家に分裂していったことを指摘しています。これらの小国家は、それぞれ独自の政治体制、経済構造、文化を持っていました。フランドル地方の毛織物産業の発展や、ブルージュなどの都市の繁栄は、ピレンヌが特に注目した点です。
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近世
近世に入ると、ベルギー地域は、ハプスブルク家による支配を受けることになります。ピレンヌは、ハプスブルク家の支配が、ベルギー地域に統一と安定をもたらしたことを評価しています。一方で、彼は、ハプスブルク家の支配が、ベルギー地域の経済発展を阻害した側面もあったことを指摘しています。
16世紀後半からのネーデルラント革命と、それに続く八十年戦争は、ピレンヌのベルギー史において重要な位置を占めています。彼は、この戦争を、宗教的な対立だけでなく、政治的、経済的な要因も絡んだ、複雑な闘争として捉えていました。
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近代
近代に入ると、ベルギー地域は、フランス革命の影響を受け、フランスの支配下に置かれます。その後、ウィーン体制を経て、1830年にベルギー王国として独立を果たします。ピレンヌは、ベルギーの独立を、長年にわたる独自の文化、言語、経済発展の成果として捉えていました。