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パムクの私の名は赤

パムクの私の名は赤

語り手について

パムクの『私の名は赤』は、個性的な語り手を特徴としています。 語り手は章ごとに交代し、時には擬人化された物体が語ったり、故人が語ったりすることもあります。 このような手法により、読者は多角的な視点から物語を体験することができます。 例えば、ある章では、絵筆自身が自分の視点から物語を語り、芸術に対する独自の洞察を提供します。 また、殺害されたミニチュア画家の視点から物語が語られる章もあり、事件の謎が深まります。 このように、語り手の多様性は、単なる物語の進行以上の役割を担っており、芸術、愛、アイデンティティといった作品全体のテーマを浮き彫りにしています。

東西文化の対立について

16世紀末のオスマン帝国を舞台にした本作は、西洋文化の影響と伝統的なイスラム文化の対立というテーマを鮮やかに描き出しています。 西洋から持ち込まれた写実的な絵画技法は、神への冒涜とみなす者もおり、ミニチュア画家たちの間で葛藤を引き起こします。 イスラムの伝統的な芸術観では、絵画は神への賛美を表すものであり、写実的な表現は不要とされてきました。 しかし、西洋の影響を受けた新しい世代の画家たちは、写実性を追求することで芸術表現の可能性を広げようとするのです。 このような対立は、単なる芸術論争を超え、当時のオスマン帝国が直面していた西洋化の波と伝統の維持という、より大きな社会問題を象徴していると言えるでしょう。

盲目と視覚について

『私の名は赤』では、「盲目」と「視覚」が重要なモチーフとして繰り返し登場します。 主人公である黒は、愛する女性シェキュレに会うために故郷に戻りますが、彼女は盲目であるという設定です。 黒は12年の間、シェキュレの姿を見ていませんが、彼女の心の美しさに惹かれ続けています。 また、作中には盲目のミニチュア画家が現れ、視覚を失ったことでかえって芸術の真髄を見抜く能力を獲得したことが示唆されます。 これらの描写を通して、パムクは外見的な美しさにとらわれず、心の奥底を見つめることの大切さを訴えているのかもしれません。 一方、写実性を追求するあまり、魂を失っていくミニチュア画家たちの姿も描かれており、「真の視覚」とは何かを読者に問いかけます。

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