## ヒュームの人間機械論の批評
ヒュームの主張
デイヴィッド・ヒュームは、18世紀スコットランドの哲学者であり、『人間本性論』(1739-40)などの著作で経験論と懐疑主義を主張しました。ヒュームは、人間の心は独立した実体ではなく、知覚や感情、思考といったさまざまな心的状態が時間的に連続して生起する「束」であると主張しました。
ヒュームはこの考え方をさらに推し進め、人間と動物の間には本質的な違いはなく、動物と同じように人間もまた、感覚経験や学習によって行動が決定される機械のような存在であると主張しました。これがヒュームの「人間機械論」と呼ばれる主張です。
経験論に基づく機械論
ヒュームは、人間の行動や思考は、すべて過去の経験に基づいており、理性や自由意志によって決定されるわけではないと主張しました。例えば、私たちが火を見ると熱いと感じるのは、過去の経験から「火は熱い」という結びつきを学習しているからです。これは、人間が外部からの刺激に対して、機械的に反応していることを示唆しています。
自由意志の否定
ヒュームの人間機械論は、伝統的な自由意志の概念に対しても疑問を投げかけました。もし人間が機械のような存在であり、その行動がすべて過去の経験によって決定されているとすれば、真の意味での自由意志は存在しないことになるからです。この主張は、道徳的責任や倫理といった問題にも大きな影響を与える可能性があります。
因果関係への懐疑
ヒュームはさらに、私たちが因果関係と呼んでいるものは、単に習慣的な結びつきに過ぎないと主張しました。例えば、ビリヤードの球を撞くと、別の球が動き出すのを見ますが、私たちは経験から「撞くこと」と「動くこと」の間に因果関係があると解釈しています。しかし、ヒュームによれば、実際に経験しているのは、2つの出来事が連続して起こることだけであり、その間に必然的なつながりを見出すことはできません。
ヒュームのこの主張は、私たちが世界を理解する上で、因果関係が重要な役割を果たしていることを考えると、非常に挑戦的なものです。もしヒュームの主張が正しいとすれば、私たちは世界の真の姿を理解することはできないことになります。