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バタイユの呪われた部分の批評

## バタイユの呪われた部分の批評

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過剰性と浪費の概念

バタイユは、『呪われた部分』において、人間の経済活動と社会構造を、生産と消費のみに還元する古典的な経済学の枠組みを批判し、「過剰性」と「浪費」という概念を軸に、人間存在の根源的な側面を照らし出そうと試みました。バタイユによれば、太陽エネルギーをはじめとする自然は、生命体に対して過剰なエネルギーを供給しており、人間はこの過剰なエネルギーを消費せざるを得ない存在であるといいます。

バタイユは、この過剰なエネルギーの消費活動を「浪費」と呼び、生産活動とは異なる次元で行われる活動として位置づけました。「浪費」は、有用性や合理性を超えたところで行われる、いわば「無為な消費」であり、祭りや戦争、芸術、性的活動など、人間社会においてしばしば抑圧や禁止の対象となってきた活動を例として挙げることができます。

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「呪われた部分」と社会

バタイユは、このような「浪費」の概念を拡張し、社会構造そのものにも適用しようと試みました。バタイユは、近代資本主義社会を、生産性を至上命題とし、過剰な富を蓄積しようとする「限定経済」のシステムとして捉え、このシステムに対抗する形で、「浪費」を基軸とした「一般的経済」の概念を提示しました。「一般的経済」においては、過剰な富は、非生産的な活動、すなわち「浪費」を通じて社会全体に還元されるべきものとして構想されます。

バタイユは、近代社会において「浪費」が抑圧された結果、戦争や犯罪といった形で「呪われた部分」として噴出してしまうと主張しました。彼は、これらの現象を、過剰なエネルギーの行き場を失った社会が、自らを破壊へと導く病理的な兆候として捉え、真に豊かな社会を実現するためには、「呪われた部分」を直視し、「浪費」を積極的に社会に組み込んでいく必要があると説きました。

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