ルターのキリスト者の自由の主題
キリスト者の二つの本性
ルターは、キリスト者は同時に義人であり罪人であるというパラドックスを提示することから始めます。 私たちは信仰によってキリストと結びつき、その義によって神の前に完全に義とされています。 これが私たちの「新しい人」、つまり霊的な本質です。 しかし、私たちは依然としてこの世に生きており、罪深い肉と血の体を持っています。 これは私たちの「古い人」、つまり肉体的で罪深い本質です。
信仰による義認
ルターにとって、信仰による義認の教理はキリスト者の自由の中心です。 人間は、善行や宗教的儀式ではなく、キリストへの信仰によってのみ神の恵みと救いを受けます。 この信仰は、神の無償の賜物であり、人間の努力や功績の結果ではありません。
内面の自由
信仰による義認は、キリスト者に罪と死の束縛からの内面の自由をもたらします。 私たちはもはや律法の呪いや神の怒りを恐れる必要はありません。 なぜなら、私たちはキリストにおいてすでに赦され、受け入れられているからです。 この内面の自由は、真の喜び、平安、そして神への愛に満ちた人生の基盤となります。
外側の自由
内面の自由は、外側の自由、つまり愛の奉仕における自由へと自然とつながっていきます。 私たちはもはや、自分の救いのために善行をする必要はありませんが、隣人を愛し、仕えることを自由に選択できます。 この奉仕は、利己心や義務感からではなく、感謝と隣人への真の関心から生まれます。
世俗の権威への服従
ルターは、キリスト者の自由は、無秩序や無政府状態を意味するものではないことを強調しています。 キリスト者は、依然として世俗の権威に服従し、社会の秩序と平和に貢献する必要があります。 なぜなら、世俗の権威は、神によって、悪を抑制し、秩序を維持するために制定されているからです。
自由の限界
ルターは、キリスト者の自由は絶対的なものではなく、その限界を明確にしています。 第一に、この自由は、隣人を害したり、罪を犯したりするために用いられるべきではありません。 第二に、この自由は、信仰の問題に関するものです。 教義や礼拝の形式など、信仰に関する事柄においては、キリスト者は良心の自由を持たなければなりません。 しかし、世俗の事柄においては、キリスト者は、権威に従い、社会の共通善のために協力する必要があります。