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ルターのキリスト者の自由と人間

## ルターのキリスト者の自由と人間

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はじめに

1520年、マルティン・ルターは「ドイツ国民のキリスト教貴族へ」 「教会のバビロン捕囚について」「キリスト者の自由について」の三大パンフレットを次々と発表し、宗教改革の烽火をあげました。「キリスト者の自由について」は、ルターの宗教改革の中心思想である「信仰義認説」を最もわかりやすく解説した書として知られています。本稿では、この「キリスト者の自由について」を軸に、ルターの人間理解について考察していきます。

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信仰によって義とされる自由

ルターは、人間は生まれながらにして罪深い存在であり、自らの力では神の救いに至ることができないと説きました。ルターにとって、人間は神の前に全くの無力な存在であり、善行を積むことなどによって自力で救いに至ることは不可能でした。

この絶望的な人間の状況に対して、ルターは「信仰義認説」を提示します。これは、人間はただ神の恵みとキリストの贖罪を信じる信仰のみによって義とされ、救済されるとする考え方です。ルターにとって、信仰とは人間的な努力や功績ではなく、神からの贈り物でした。

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内面における自由と外面的束縛

ルターは、信仰によって義とされたキリスト者は、あらゆる外的束縛から解放され、真に自由な存在となるとしました。この自由は、教会の権威や律法からの解放を意味します。ルターは、当時のカトリック教会が聖書に反して、免罪符の販売など様々な制度や慣習によって人々を縛り付けていると批判しました。

しかし、ルターは同時に、キリスト者の自由は決して放縦な自由ではないことを強調しています。真の自由とは、神と隣人への愛に生きることによって得られるものでした。

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すべての人間は二つの王国に属する

ルターは、「二つの王国論」を展開し、キリスト者は信仰によって内面においては自由であると同時に、世俗の秩序に従う必要があると説きました。ルターは、この世界には「神の王国」と「世俗の王国」の二つが存在すると考えました。

「神の王国」は信仰と愛によって支配される目に見えない王国であり、「世俗の王国」は法律や権力によって維持される目に見える王国です。キリスト者は信仰によって「神の王国」に属していますが、同時にこの世に生きている限り「世俗の王国」にも属しています。

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世俗の秩序への従順

ルターは、キリスト者は「世俗の王国」においても、その秩序に従い、職業に励み、社会に貢献する義務があるとしました。これは、世俗の秩序は神によって定められたものであり、それを守ることは神の意志にかなう行為だと考えたからです。

ルターは、たとえそれが不当な支配者であっても、世俗の権威には基本的に服従すべきであると説きました。これは、当時の農民戦争に見られるように、ルターの思想が悪用される危険性もはらんでいました。

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