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ラサールの労働者綱領の周辺

## ラサールの労働者綱領の周辺

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1. フェルディナント・ラサールとその時代

フェルディナント・ラサール(Ferdinand Lassalle, 1825-1864)は、19世紀ドイツの社会主義者、政治活動家、思想家です。プロイセン王国ブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)の裕福なユダヤ人商人の家庭に生まれ、ベルリン大学とブレスラウ大学で哲学、歴史、法学を学びました。

ラサールは、ヘーゲル哲学の影響を受けつつも、それを批判的に継承し、独自の唯物史観に基づく社会主義理論を展開しました。彼は、当時のドイツ社会における労働者階級の窮状を目の当たりにし、その解放のために尽力しました。

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2. 労働者綱領の内容と背景

「労働者綱領」(Arbeiterprogramm)は、1862年にラサールがライプツィヒ労働者組合に向けて発表した政治綱領です。この綱領は、当時のドイツ労働者階級の置かれた状況を分析し、その解放のための具体的な要求を掲げたものでした。

綱領でラサールは、労働者階級の貧困と政治的無権利状態を克服するために、普通選挙の実現による国家権力の掌握と、国家による生産組合の設立を訴えました。彼は、国家を労働者階級の利益のために積極的に利用することで、社会主義的な社会を実現できると考えていました。

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3. 労働者綱領の影響と評価

「労働者綱領」は、ドイツ労働者階級の間で広く読まれ、大きな影響を与えました。この綱領は、ドイツにおける社会主義運動の発展に大きく貢献し、後のドイツ社会民主党(SPD)の綱領にも影響を与えました。

しかし、ラサールの国家社会主義的な思想は、マルクス主義者からは批判の対象となりました。マルクスやエンゲルスは、ラサールの思想を「国家万能主義」と批判し、国家ではなく、労働者階級自身による革命によって社会主義を実現すべきだと主張しました。

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4. ラサールとマルクスの関係

ラサールとマルクスは、同時代に活躍した社会主義思想家として、互いに影響を与え合ったとされています。二人は、書簡を交換したり、実際に会って議論したりするなど、一定の交流がありました。

しかし、両者の間には、思想的な違いも存在しました。ラサールが国家を積極的に利用することで社会主義を実現しようとしたのに対し、マルクスは国家をブルジョアジーの支配の道具とみなし、労働者階級による国家の打倒を目指しました。

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5. ラサールの死とその後のドイツ社会主義運動

ラサールは、1864年、恋愛沙汰から決闘を行い、39歳の若さで亡くなりました。彼の死は、ドイツ社会主義運動にとって大きな損失となりました。

ラサールの死後、ドイツ社会主義運動は、ラサールの影響を受けたグループと、マルクスの影響を受けたグループに分裂しました。しかし、1875年に両グループは統合し、ドイツ社会民主党(SPD)が結成されました。SPDは、その後、ドイツにおける労働運動の中心的な役割を果たすことになります.

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