ヤスパースの理性と実存に影響を与えた本
ニーチェ 著 『悲劇の誕生』
カール・ヤスパースの思想、特に理性と実存に関する考察に深い影響を与えた書物の一つに、フリードリヒ・ニーチェの主著『悲劇の誕生』が挙げられます。この著作は、古代ギリシャ悲劇を題材に、芸術と生の根源的な問題を考察したもので、ヤスパースの思想形成に多大な影響を与えました。
ヤスパースは、ニーチェの思想から、理性中心主義的な近代思想への批判的な視点を学び取ります。ニーチェは、『悲劇の誕生』において、ソクラテス以降の西洋哲学を、理性によって世界を秩序づけようとする試みとして捉え、その結果として、生の根源的な力であるディオニソス的なものが抑圧されてきたと批判しました。ヤスパースもまた、理性の限界を認識し、理性では捉えきれない実存の深淵へと向かおうとしました。
ニーチェは、ギリシャ悲劇において、アポロン的なものとディオニソス的なものが対立と融合を繰り返すことで、生の力強さが表現されていると論じました。アポロン的なものは、秩序、形式、理性などを象徴し、ディオニソス的なものは、混沌、陶酔、非理性などを象徴します。ニーチェは、この二つの原理のせめぎ合いこそが、人間の生の根源的な力であると考えました。
ヤスパースは、ニーチェのこの洞察を踏まえ、人間存在を、理性では捉えきれない「限界状況」において、自らの有限性と対峙し、実存的な不安と孤独を経験する存在として捉えました。限界状況とは、死、苦しみ、罪、偶然などの、人間存在の根底に関わる、理性では解決できない問題状況を指します。
ヤスパースは、限界状況において、人間は、従来の価値観や思考様式が通用しない「実存的破綻」を経験し、そこから、真の意味での自己存在と向き合うことが求められると考えました。そして、この実存的な破綻と、そこから立ち上がろうとする人間の営みこそが、真の意味での「実存」であるとしました。
このように、ヤスパースは、『悲劇の誕生』におけるニーチェの洞察、特に理性中心主義への批判と、アポロン的、ディオニソス的な二元論を通して、人間存在の根源的な問題を考察し、理性では捉えきれない実存の深淵へと思想を展開していったのです。