メルロ=ポンティの知覚の現象学の思考の枠組み
メルロ=ポンティの知覚論における身体の役割
メルロ=ポンティは、伝統的な哲学、特にデカルト以来の心身二元論を批判し、身体が単なる物質的実体ではなく、世界と関わり、世界を理解するための根本的な媒介であることを主張しました。彼は、身体を通して世界を知覚し、経験すると考えました。視覚、聴覚、触覚といった感覚は、身体という基盤の上で初めて成り立つものであり、身体抜きに世界を認識することは不可能です。
たとえば、私たちがある物体を「見る」とき、それは単に網膜に映った光の情報を受け取っているだけではありません。私たちは、身体を使ってその物体に近づいたり、回り込んだりすることで、様々な角度からの視覚情報を得ています。さらに、触覚やその他の感覚も総動員することで、その物体の質感、温度、重さなどを総合的に理解し、世界の中に位置づけていきます。
「身体図式」と意識の定位
メルロ=ポンティは、私たちが自分の身体をどのように認識し、世界とどのように関係づけているのかを説明するために、「身体図式」という概念を提唱しました。身体図式とは、身体の各部位の位置や動き、そして身体と周囲の環境との関係性を、意識的に認識することなく把握している、暗黙的な知識体系のことです。
たとえば、私たちが手を伸ばしてコップを取ろうとするとき、私たちは腕の長さや手の位置、コップまでの距離などをいちいち意識的に計算しているわけではありません。身体図式によって、私たちは自分の身体を「道具」のように自然に使いこなすことができます。この身体図式は、世界の中で自分がどこに位置し、どのように行動すればいいのかを知るための、いわば「無意識の地図」としての役割を果たしています。
知覚の「志向性」と「ゲシュタルト」
メルロ=ポンティは、知覚は受動的なプロセスではなく、能動的なものであると主張しました。私たちは世界をありのままに受け取っているのではなく、常に何らかの意味や価値を見出そうとしています。この知覚の能動的な側面を、彼は「志向性」という言葉で表現しました。
また、メルロ=ポンティは、知覚において「部分」ではなく「全体」が先に認識されると考えました。たとえば、私たちは個々の音符をバラバラに聞くのではなく、メロディーとして全体を捉えます。これは視覚においても同様で、個々の点や線ではなく、図形や風景として全体を認識します。彼は、この全体を先に捉える知覚の特性を「ゲシュタルト」と呼びました。