メルロ=ポンティの知覚の現象学が扱う社会問題
身体と社会性の交差
メルロ=ポンティの現象学において、身体は単なる物質的な実体ではなく、世界と関わり、意味を構築するための主体的な媒体として位置づけられます。彼は、私たちが世界を知覚する際には、視覚や聴覚といった感覚だけでなく、身体全体の運動感覚や身体図式が重要な役割を果たしていると主張しました。
この身体中心的な視点は、必然的に社会的な次元へと開かれています。なぜなら、私たちの身体は、誕生の瞬間から他者の身体との相互作用を通じて形成され、社会的な意味や価値観を内面化していくからです。乳幼児期における母親との触れ合い、言語の習得、文化的な慣習の習得など、私たちは常に他者との身体的な関わり合いの中で、自己と他者、自己と世界の関係性を織りなしていくのです。
間主体性と共同体の倫理
メルロ=ポンティは、ハイデガーの「現存在」の概念を継承し、人間存在を「共に在る存在」として捉えました。彼にとって、他者との関係は、後から付け加えられるものではなく、私たちの存在の根源的な構造に組み込まれているものです。私たちは、他者の視線、表情、身振りなどを通じて、常に「見られる私」として存在し、他者との間で相互的な認識が成立しています。
この「間主観性」と呼ばれる視点は、伝統的な個人主義的な倫理観を超えた、新たな共同体の倫理を構想する上で重要な示唆を与えます。メルロ=ポンティは、他者を抽象的な「他者一般」としてではなく、具体的な身体と歴史性を持った「あなた」として encounter することの倫理的な重要性を強調しました。真の共同体とは、個々の主体性が抹消された全体主義的なものではなく、それぞれが身体を持った主体として、互いの差異を尊重し、対話し合いながら、共通の世界を創造していくような開かれた共同体であるべきなのです。
抑圧と排除の構造
メルロ=ポンティの現象学は、身体と社会、自己と他者の関係を問い直すことを通じて、現代社会における抑圧や排除の構造を批判的に分析するための視座を提供します。彼は、近代社会においては、合理主義的な思考様式や客観主義的な世界観が支配的になり、身体や感情、主観的な経験が軽視される傾向があると批判しました。
このような近代的な二元論的な思考は、特定の身体や文化、生活様式を「正常」なものとみなし、そこから逸脱するものを「異常」なものとして排除する差別や偏見を生み出す温床となります。たとえば、障害者やマイノリティに対する差別、性差に基づく抑圧などは、身体や文化の多様性を認めず、画一的な価値観を押し付けることから生まれてくるといえます。
知覚の再魔術化:芸術と政治
メルロ=ポンティは、このような近代社会における身体の忘却に対抗するために、「知覚の再魔術化」を呼びかけました。彼は、芸術、特に絵画や文学が、私たちを習慣的な知覚の枠組みから解放し、世界を新鮮な感覚で捉え直させてくれる力を持っていると考えました。
また、メルロ=ポンティは、政治と身体の関係についても深い関心を抱いていました。彼は、政治とは単に制度やイデオロギーの問題ではなく、身体を通じて世界を経験し、他者と関係を築いていくという、私たちの根源的なあり方に深く関わっていると考えました。真の政治とは、抽象的な理念ではなく、具体的な身体や生活空間を起点とし、人々が自らの身体を通して世界を創造していくような、創造的な活動でなければならないのです。