## ミルトンの『失楽園』と人間
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人間の自由意志
『失楽園』において、ミルトンは人間に与えられた神の最も大きな贈り物として**自由意志**を強調しています。アダムとイブは、神に従ってエデンの園にとどまるか、蛇の誘惑に屈して禁断の果実を食べるかを選択することができます。
>「見ての通り、善悪を知る木を除いては、園のどの木からでも食べてよい。だが、善悪を知る木からは食べてはならない。食べてしまったなら、その日に必ず死ぬことになる。」 (創世記 2:16-17)
この選択の自由こそが、彼らを単なる神の操り人形ではなく、道徳的に責任ある存在たらしめているのです。しかし、自由意志は同時に、彼らが過ちを犯し、その結果に苦しむ可能性も孕んでいます。
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罪と堕落
アダムとイブの選択は、彼ら自身の楽園からの追放と、人類全体への罪と死の招来という悲劇的な結果をもたらします。ミルトンは、**誘惑**、**虚栄心**、**知識への渇望**といった人間の弱さを探求し、それらがどのように罪に繋がるのかを描写しています。
>「女は蛇に向かって言った。「わたしたちは園の木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、神は、『それを食べてはならない、触れてもならない。さもないと死ぬ』とお言になりました。」」(創世記 3:2-3)
特にイブは、蛇の巧みな言葉に惑わされ、禁断の果実を食べることで神に等しい知識を得られるという誘惑に負けてしまいます。アダムもまた、イブへの愛と、彼女と共にいたいという思いから、神の戒めに背くことを選びます。
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贖罪と希望
『失楽園』は単なる堕落の物語ではなく、**贖罪と希望**の物語でもあります。ミルトンは、アダムとイブの罪に対する神の憐れみと、彼らの子孫に与えられる救済の可能性を描いています。
>「わたしは、お前と女との間に、お前の potomstvo と女の potomstvo との間にも敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記 3:15)
この一節は、将来現れる救世主による人類の救済を予言していると解釈されています。ミルトンは、人間の弱さと罪深さを描きながらも、神の愛と慈悲、そして人間の悔い改めと信仰による救済の可能性を示唆しているのです。