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マキャヴェッリの君主論に関連する歴史上の事件

マキャヴェッリの君主論に関連する歴史上の事件

チェーザレ・ボルジアの台頭と没落

ニッコロ・マキャヴェッリが『君主論』を執筆した1500年代初頭のイタリアは、政情不安の時代でした。分断されたイタリア半島では、教皇領、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国、ミラノ公国などの小国家が覇権を争い、陰謀、戦争、裏切りが横行していました。マキャヴェッリはフィレンツェ共和国の外交官として、この混乱した政局の渦中に身を投じていました。彼は外交使節として、当時の権力者たちと渡り合い、その冷酷な現実を目の当たりにしました。

中でも、マキャヴェッリに強い印象を与えたのが、教皇アレクサンデル6世の庶子であるチェーザレ・ボルジアの台頭と没落でした。チェーザレは、父である教皇の権力を背景に、巧みな策略と容赦ない軍事力で、イタリア中部に勢力を拡大していきました。彼は目的のためには手段を選ばない冷酷な人物として知られ、その支配は恐怖によって支えられていました。

マキャヴェッリは、1502年にチェーザレの使節として行動を共にする機会を得ました。彼は間近でチェーザレの政治手腕を観察し、その能力に感銘を受けると同時に、その冷酷さにも畏怖の念を抱きました。チェーザレは、マキャヴェッリにとって、理想の君主像を体現する存在でもあり、同時に権力の儚さを示す教訓ともなりました。

1503年、父である教皇アレクサンデル6世が死去すると、チェーザレの運命は暗転します。後ろ盾を失った彼は、敵対勢力の反撃に遭い、失脚へと追い込まれていきました。マキャヴェッリは、チェーザレの没落を目の当たりにし、権力の不安定さと、運の役割の大きさを痛感しました。

メディチ家のフィレンツェ支配

1494年から1512年まで、フィレンツェでは共和制が敷かれていましたが、マキャヴェッリは外交官としてこの政権に仕えていました。しかし、1512年にスペインの支援を受けたメディチ家がフィレンツェに侵攻すると、共和制は崩壊し、メディチ家の支配が復活しました。

マキャヴェッリは共和制の崩壊と共に公職を追われ、失意のうちに隠遁生活を送ることになりました。『君主論』はこの時期に執筆されたと考えられています。彼は、失脚の苦い経験を通して、権力とは何か、どのようにして権力を獲得し、維持するのか、といった問題について深く考えるようになりました。

マキャヴェッリは、『君主論』の中で、君主のあるべき姿を論じています。彼は、君主は、伝統的な道徳観念にとらわれず、権力を維持するために必要なあらゆる手段を講じなければならないと主張しました。これは、当時の一般的な君主像、すなわち、知性、勇気、慈悲、信仰心といった美徳を備えた「理想の君主」像とは大きく異なり、大きな論争を巻き起こしました。

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