## ホイジンガの『中世の秋』の原点
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ホイジンガの関心の根底にあったもの
ヨハン・ホイジンガは、歴史家であると同時に、文化史家、言語学者でもありました。彼は、歴史というものを、単なる政治や経済の変遷として捉えるのではなく、人間そのものの精神や文化のあり方が織りなす重層的な現象として捉えていました。
ホイジンガは、歴史研究において、文献などの一次資料を徹底的に読み込むことを重視しました。彼の著作には、同時代の文学作品や日記、書簡などが頻繁に引用され、当時の空気感を生き生きと描き出しています。
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1919年の講演「騎士道の秋のイメージ」
『中世の秋』の原点と言えるのが、1919年に行われたホイジンガの講演「騎士道の秋のイメージ」です。この講演でホイジンガは、14世紀から15世紀にかけてのブルゴーニュ宮廷文化を題材に、騎士道や宮廷恋愛といった中世の文化が、形式化し、衰退していく様を、「秋」というメタファーを用いて描き出しました。
この講演は、後に『中世の秋』の第1章「秋の庭師」の原型となりました。
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ブルゴーニュ公国への関心
ホイジンガは、15世紀のブルゴーニュ公国に強い関心を抱いていました。ブルゴーニュ公国は、フランスとドイツの間に位置し、経済的に繁栄し、独自の文化を築き上げていました。しかし、その文化は、15世紀末にフランス王国に併合されることで終焉を迎えます。
ホイジンガは、ブルゴーニュ公国の栄華と衰退の中に、中世から近代への移り変わり、すなわち「中世の秋」を見て取っていました。
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第一次世界大戦の影響
ホイジンガが『中世の秋』を執筆した1910年代後半から1920年代前半は、第一次世界大戦の直後という時代背景がありました。大戦によってヨーロッパは疲弊し、伝統的な価値観が大きく揺らいでいました。
ホイジンガ自身は、大戦に直接参加したわけではありませんでしたが、同時代の人々と同じように、大きな衝撃を受けていました。彼は、大戦後のヨーロッパの状況と、自身が研究対象としていた「中世の秋」の姿を重ね合わせて見ていました。