## ベルンハイムの催眠術の理論と実際の対極
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ジャン・マルタン・シャルコーと「パリ学派」
19世紀後半、ヒステリーや催眠現象をめぐる議論は、フランス医学界を二分する一大論争を巻き起こしました。その中心にいたのが、パリのサルペトリエール病院のジャン・マルタン・シャルコーと、ナンシーのエコール・ド・ナンシーのヒッポライト・ベルンハイムでした。ベルンハイムが催眠を「暗示による精神状態の変化」と捉え、誰にでも起こりうると考えたのに対し、シャルコーは催眠をヒステリーという神経症の一症状とみなし、ヒステリー患者にのみ現れる特別な状態だと主張しました。
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シャルコーの「有機的病変」説
シャルコーは、催眠状態はヒステリー患者にのみ現れる「グラン・ヒステリー」と呼ばれる発作の一部であり、神経系の有機的な病変によって引き起こされると考えました。彼は、催眠状態における被暗示性や感覚麻痺、硬直などの症状を詳細に観察し、体系化しようと試みました。そして、催眠状態は段階的に進行し、それぞれ異なる神経学的徴候を示すとして、「昏迷」「カタレプシー」「自動症」の三段階に分類しました。
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「パリ学派」の影響と終焉
シャルコーの提唱した「有機的病変」説は、当時の医学界に大きな影響を与え、多くの支持者を集めました。しかし、彼の理論は、催眠現象をヒステリーという特定の疾患に限定的に捉えすぎているという批判も浴びることになります。その後、シャルコーの弟子であるピエール・ジャネが、催眠を「意識の狭窄」と定義し直すなど、パリ学派内部からも修正が試みられましたが、最終的にはベルンハイムの「暗示」説が主流となっていく中で、その影響力を失っていくことになります。