## ベルクソンの時間と自由と言語
持続と自由
ベルクソンにとって、時間は単なる物理的な尺度ではなく、生きている経験の核心となるものでした。彼はこの生きた時間を「持続」と呼び、それは絶えず変化し、流れ続ける、分割不可能なものです。過去、現在、未来は互いに浸透し合い、現在の中には常に過去の痕跡と未来への予兆が内包されています。
この持続こそが、自由の根源となります。なぜなら、決定論的な世界観では、過去から未来は一意的に決定され、自由意志の入る余地はありません。しかし、ベルクソンが提示する持続においては、過去は現在に流れ込み、未来の可能性を限定するのではなく、むしろ豊かにします。私たちは過去の経験全体を背負いながらも、常に新しい現在を創造し、未来を選択する自由を持っているのです。
言語の限界と直観の重要性
しかし、この持続は、言語によって捉えることができません。言語は本質的に空間的なものであり、物事を静的な概念に切り分けて表現します。例えば、「机」「椅子」といった言葉は、特定の形や機能を持った物体を指し示しますが、絶えず変化する現実の机や椅子を完全に捉えきれるわけではありません。
時間についても同様です。「1秒」「1分」といった単位は、時間を均質なものとして切り取ったものに過ぎません。生きた時間、すなわち持続は、このような空間化された言語では表現できないのです。
では、どのようにすれば持続を捉えることができるのでしょうか。ベルクソンは、その鍵となるのが「直観」であると主張します。直観とは、論理や分析を超えた、直接的な把握の力を指します。私たちは、自分自身の内面的な経験を通して、持続を直接的に感じ取ることができるのです。
芸術、特に音楽は、この直観による把握を可能にするものとして、ベルクソンは重要視しました。音楽は、時間的な流れの中で展開し、言語のように概念に固定することができません。音楽を聴くとき、私たちは知性ではなく、直観によって、生の流れそのものを体験することができるのです。