フッサールのヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学の仕組み
フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機」における問題提起
エドムント・フッサールは、1935年から1936年にかけて行った講演と論文において、当時のヨーロッパ諸学が「危機」に瀕していると主張しました。彼が問題視したのは、近代科学の成功に基づく「客観主義」と「自然主義」が、学問の領域を超えてヨーロッパ文化全体を覆い尽くし、人間存在の根源的な意味を問い直すことを不可能にしている状況でした。
フッサールによれば、近代科学は数学や物理学といった厳密な方法を用いることで、客観的な世界認識を確立することに成功しました。しかし、この成功は、主観的な意識体験を排除し、世界を価値中立的な「対象」としてのみ捉えるという代償を伴っていました。
このような「客観主義」的な世界観は、自然科学以外の学問分野、例えば歴史学や社会学、心理学などにも影響を与え、「自然主義」という形で浸透していきました。自然主義は、人間の精神活動や文化現象を、自然法則によって説明可能な対象と見なします。その結果、人間存在における自由意志や責任、意味や価値といった問題は、科学的な説明の対象外とされ、軽視されるようになりました。
フッサールは、このような状況を「危機」と捉えました。なぜなら、人間存在の意味や価値を問い直すことのない学問は、その存在意義を失ってしまうと考えたからです。彼は、「ヨーロッパ諸学の危機」の根源には、近代科学がもたらした「客観主義」と「自然主義」によって、人間の意識体験や精神世界が軽視されている状況があると指摘しました。
超越論的現象学による解決の試み
フッサールは、この危機を克服するために、「超越論的現象学」という方法を提唱しました。それは、人間の意識体験そのものを対象とし、その構造を明らかにしようとする試みです。彼は、意識体験を「現象」として捉え直し、その本質を直観的に把握すること(現象学的還元)を重視しました。
フッサールによれば、意識は常に何かに「向かう」という構造を持っています。例えば、私たちが何かを「見る」とき、そこには必ず「見られるもの」としての対象が存在します。この「向かう」という意識の構造を、「志向性」と呼びます。
フッサールは、この「志向性」という概念を手がかりに、意識体験を客観的な対象から切り離し、純粋な意識体験として分析しようとしました。そして、その分析を通じて、意識体験の根底にある「超越論的主観性」という構造を明らかにしようと試みました。
フッサールは、「超越論的現象学」によって、「客観主義」と「自然主義」を超克し、人間存在の意味や価値を問い直すための新たな哲学的基礎を提供しようとしました。彼の試みは、後の哲学や思想、そして心理学や社会学といった人文・社会科学の分野にも大きな影響を与えました。
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