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フィヒテの全知識学の基礎の思索

## フィヒテの全知識学の基礎の思索

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知識の出発点

フィヒテの『全知識学の基礎』は、人間のあらゆる知識の根拠を明らかにしようとする壮大な試みです。カントが批判哲学において、人間の認識能力の限界を明らかにし、物自体を認識することはできないと結論付けたのに対し、フィヒテは、カントの批判哲学を出発点としながらも、物自体を思考の外部に仮定する必要はないと考えました。

フィヒテは、知識の確実な基礎を確立するために、一切の前提を排した絶対的な出発点を求めました。そして、「私は思う」というデカルトの命題も、すでに「我」と「思う」という二つのものを前提としているため、真の出発点とはなりえないと考えました。

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自意識の分析と自己設定

フィヒテは、我々が何かを考えるとき、必ず「**A = A**」という同一律が成り立っていることに気づきます。この「A = A」という形式こそが、あらゆる思考の基礎となるものであり、フィヒテはこれを「**原命題**」と呼びました。

重要なのは、原命題は「我」が何かを思考するよりも前に、すでに前提として存在しているということです。そして、この原命題が成立するためには、「A」というものが「A」自身と同一であると同時に、「非A」とは区別されなければなりません。

この「A」と「非A」の区別、すなわち「**区別設定**」こそが、フィヒテの哲学における重要な概念です。フィヒテは、この区別設定は、自意識が自らを「我」として設定すること(**自己設定**)と同時に行われると考えました。

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自己意識と非我

自己設定は、自意識が自らを限定すること、すなわち「我」という有限な存在として規定することを意味します。そして、自己限定は同時に、自己と異なるもの、すなわち「非我」を設定することを意味します。

「非我」とは、自己の外に存在する、自己とは独立したもののことであり、これは感覚的な対象や外界などを指します。フィヒテは、自意識が「非我」を経験することによって、自己の限界を知り、自己をさらに発展させていくと考えました。

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行為と認識

フィヒテは、自意識が「非我」に対峙し、自己を限定していく過程を「**行為**」と呼びました。そして、この行為を通して、自意識は「非我」を認識していくと考えました。

フィヒテによれば、認識とは受動的な活動ではなく、自意識が能動的に「非我」を構成していく行為です。自意識は、「非我」に働きかけ、それを克服しようと努めることによって、自己をさらに発展させていくのです。

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