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ヒュームの人間機械論の思考の枠組み

## ヒュームの人間機械論の思考の枠組み

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経験主義を基盤とする人間理解

ヒュームは、我々の知識の源泉は経験であるという経験主義の立場をとっていました。彼は、生まれつき持ち合わせている生得的な観念を否定し、あらゆる観念は感覚経験もしくは反省経験(内的な心の動きに対する経験)から導き出されると主張しました。

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観念の結合:想像力と観念連合の原理

ヒュームは、経験から得た単純な観念が、想像力によって複雑な観念へと結びつけられると説明しました。そして、この想像力の働きを支えるのが「観念連合の原理」です。彼は、観念同士が結びつく法則として、以下の3つを挙げました。

* **類似**: 似ているもの同士が結びつく
* **時空的近接**: 時間的・空間的に近いもの同士が結びつく
* **因果関係**: 原因と結果のように、常に一定の関係で生起するもの同士が結びつく

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因果関係への懐疑:習慣としての推論

ヒュームは、観念連合の中でも重要な「因果関係」について、我々がそれを経験的に捉えることは不可能だと主張しました。

例えば、ビリヤードの球が衝突する場面を考えてみましょう。我々は、白い球が赤い球にぶつかった後、赤い球が動き出すのを観察します。そして、白い球の衝突が赤い球の動きの「原因」であると認識します。

しかし、ヒュームによれば、我々が実際に経験できるのは、二つの出来事(白い球の衝突と赤い球の動き)が時間的・空間的に近接して起こることだけです。二つの出来事の間の「必然的な繋がり」や、白い球が赤い球を動かす「力」のようなものは、感覚的に経験することができません。

では、なぜ我々は因果関係があると考えるのでしょうか?ヒュームは、それが過去の経験に基づいた「習慣」によるものだと説明しました。 過去の経験から、白い球の衝突と赤い球の動きが繰り返し結びついて起こるのを観察することで、我々は無意識的に二つの出来事の間に因果関係を想定するようになるのです。

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「自我」の不在:知覚の束としての自己

ヒュームは、「自己」や「魂」といった恒常的な実体も経験的に捉えることはできないと主張しました。我々は、自分自身を内観しても、常に変化する思考、感情、感覚などの流れを経験するだけです。

彼は、このことから、我々が「自己」と呼ぶものは、絶え間なく変化する知覚の束に過ぎないと結論付けました。恒常的な「自我」は存在せず、あるのは次々と現れては消える、バラバラな知覚の連続体なのです。

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