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バタイユの呪われた部分の選択

バタイユの呪われた部分の選択

消費の二つの様態

ジョルジュ・バタイユは、その思想体系において、人間の経済活動を「消費」という概念を中心に据えて捉え直そうとしました。バタイユによれば、人間の消費活動は大きく二つに分けられます。

一つは、生産活動の再生産に必要な範囲内で行われる消費です。これは、労働力や生産手段を維持するために必要な食料、衣服、住居などを得るための消費であり、バタイユはこれを「有限性」の原理に従う消費と捉えました。

もう一つは、必要性を超えた、過剰な消費です。これは、例えば贅沢な食事や装飾品、祭祀や芸術など、直接的に生産活動に貢献しないように見える消費を含みます。バタイユはこのような過剰な消費こそが、人間存在を規定する根源的な活動であると考え、「過剰性」の原理に従う消費と呼びました。

呪われた部分としての過剰なエネルギー

バタイユは、太陽から地球に降り注ぐ莫大なエネルギーに着目し、生命活動もまたこのエネルギーの過剰な流入と放出のサイクルの中にあると捉えました。植物は光合成によって太陽エネルギーを吸収し、動物はその植物を食べることで間接的に太陽エネルギーを取り込みます。そして、生命体は呼吸や排泄、死といった形で、余剰なエネルギーを常に外部に放出し続けています。

人間社会もまた、このエネルギーの循環の中に位置づけられます。生産活動は、自然界から資源を採取し、エネルギーを取り出す行為であり、消費活動はそのエネルギーを解放する行為です。しかし、近代資本主義社会においては、「有限性」の原理に基づいた生産活動が過度に重視され、過剰なエネルギーは常にさらなる生産のために投資され続けています。

バタイユは、このような状況を、過剰なエネルギーが「呪われた部分」として社会の中に蓄積されている状態だと考えました。そして、この「呪われた部分」を解放するために、非生産的な、過剰な消費が必要であると主張しました。

過剰性の消費の諸形態

バタイユは、「呪われた部分」を解放するための過剰性の消費の形態として、様々な例を挙げました。

その中には、古代社会におけるポトラッチや生贄の儀式、宗教におけるエクスタシー体験、芸術における無償の創造活動などが含まれます。これらの活動は、いずれも直接的に生産活動には結びついておらず、一見無駄なように思えるかもしれません。しかし、バタイユは、これらの活動こそが、人間存在を規定する「過剰性」を表現し、解放する手段であると考えたのです。

バタイユは、現代社会においても、この「呪われた部分」を解放する手段を見出す必要があると主張しました。彼は、戦争や革命といった破壊的な出来事も、過剰なエネルギーの解放という観点から分析できることを示唆しました。しかし、同時に、より平和的な手段によって、この過剰なエネルギーを解放できる可能性も示唆しています。

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