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バタイユの呪われた部分の美

## バタイユの呪われた部分の美

「呪われた部分」における美の概念

ジョルジュ・バタイユの主著の一つである『呪われた部分』は、エロスと死、浪費と過剰といった、近代合理主義が排除しようとしてきた生の側面に焦点を当てています。バタイユにとって、これらの「呪われた部分」こそが、人間存在の根源的な真実を明らかにするものであり、そこには独特の美が存在します。

「連続性」と「不連続性」の対比における美

バタイユは、世界を「連続性」と「不連続性」の対比で捉えます。連続性は、理性、秩序、生産といった近代社会を特徴づける概念であり、そこでは個は全体に還元され、差異は抹消されます。一方、不連続性は、エロス、暴力、死といった連続性を断裂させる力であり、個の特異性と生の輝きを回復させるものです。バタイユは、不連続性の劇的な表現であるエロスや暴力、死の中にこそ、連続性によって抑圧された生のエネルギーが解放される瞬間を見出し、そこに美を見出します。

「消費」と「浪費」における美

バタイユは、人間の経済活動を「生産」と「消費」の枠組みを超えて捉え直し、「浪費」という概念を導入します。消費が自己保存のために必要な最小限の行為であるのに対し、浪費は、過剰なエネルギーを非生産的に消費する行為です。バタイユは、太陽のエネルギーの浪費を例に挙げ、生命活動そのものが浪費に満ちていることを指摘します。そして、人間もまた、祭りや芸術、贈与といった非生産的な活動を通して、過剰なエネルギーを浪費することで、動物的な生を超越し、人間としての尊厳を獲得すると考えます。バタイユは、この浪費の行為の中に、生の輝きと美を見出します。

「エロス」と「死」における美

バタイユは、エロスと死を、連続性を断ち切り、不連続性へと回帰させる力として捉えます。エロスは、個をその境界から解放し、他者との融合へと導く力であり、死は、個をその存在の根源へと回帰させる力です。バタイユは、エロスと死の体験の中に、自己の限界を超越し、生の全体性へと触れる可能性を見出し、そこに崇高な美を見出します。

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